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上野霄里(しょうり)先生の 『賢人の庵』 です。思索を深めるあなたへ

言葉は限定されている


 何時でも自分自身の言葉で生きていくことが必要な人間なのだが、それが出来ずに社会の言葉や他人の言葉で生きていく方が心が疲れず、身体ものんびり出来るのである。誰もが大抵そのように生きているこの世の中である。
 自分自身の言葉を心の中で並べて行くには人は余りにも忙しすぎ、自分の言葉に赤信号を点滅させ、制限し又、限定して生きているのが大抵の人の全人生時間だ。このようにして使い分けられている言葉やそれが意味するものは、大抵の場合余り友好的には働いていない。言葉が持っている大きな力が100%とするならば現代人の制限されている言葉の働きは、10%とにも満たないようだ。
 現代人は規則が好きだ。自分の考えよりは先ず規則を重視する。確かに集団の中では便利な言葉や金銭や道具や方法などは、様々に変化しているのでそこには当然規則というものが数多く出現する。この数多さは単に笑って誤魔化していられるようなものではなく、心ある人にとっては恐怖心とさえなる。自分を何とか一流だと考えている人も、更には自分が二流三流だとのんびりと考えている人達でもこういった数しれない規則の前では時には大きな恐怖心を抱く。正直であればあるほど、律儀であればあるほど、この種の恐怖心は人を臆病にする。恐らく臆病とは安心出来る利口さ又は小利口さの形の別の表現かもしれない。人として生きるための技術とか技法はこんな恐怖心の中で磨かれるのかもしれない。それとは反対にはっきりと自分自身というものを目の前に曝け出す人は何とも人生の技法が下手だと思われるのが落ちだ。
 言葉の使い方はそのまま人生の技法ではあるのだがこの技法を別の言葉、疾病に置き換えるなら現代人の悲しい言葉や小利口な世渡りに必要な言葉の本質に入って行かれるようだ。どんな約束事も、法律も、全て一度東北の大災害のように現代人の生き方の中で破壊されるならばその後には全く新しい本人の言葉だけで通じ、伸び伸びと生きられる所謂神話や伝説の中の空気が入ってくるような時代があるのかもしれない。今のような汚れたメタンガスの言葉や、行動に縛られているこの世の中に現われる英雄などはアレキサンダーやナポレオンやヒットラーのようにその末路はとても悲しく納まってしまうが、それとは別に新秩序の中で個人同士が夫々を認めて生きる不思議な世界が現われるとすれば、それは正しく本当の意味の人生を生き抜ける大自然の知恵の技術であろう。
 人間は社会で羽ばたいてみても、そこには自由がなく翼が鎖で縛られているので、自由には飛べないのである。風の中を何処までも飛翔できる心の翼、即ちその人の心が紡ぎだす言葉を持っているならそこには疑う余地のない本当の人生があるだろう。
 今のところあらゆる意味において何らかの容疑者である人間は、虫や魚達のように、小利口な猿や爬虫類のように清廉潔白で日の本の下を歩ける存在ではないのである。
 人間何事も金で解決すると思っていたり、大自然が与えた生命を人の権力に依って立ち上がった裁判官の力で死刑にするなどと考えるこの現実は、全く怪しい。どんな大罪を犯しても人は人の生命を処刑する権利はない。せいぜい有るのは人の世の中から遠く離れた無人島にでも追いやることぐらいが最後の人の行える権利なのではないだろうか。
 人の生き方というものは様々に違い、共に生きながら嗤い、泣き、怒りながら、自分の心の中や身体の外側を紡ぎながら生きて行くのが人の人生の流れであり、細胞の自由な動きであるようだ。言葉の心のどの辺りにその人の性格などがはっきりと見えてくるのか私たちは知らない。然し人同士の、又集団の付合い方の中に本来は隠している人の個人個人の独特な形が、ある瞬間にはっきりと見えてくる場合がある。どんな人間でも心と身体は常に元気で動いていなければならない。現代人のそれは殆ど疾病の中で薬漬け、注射漬けで生きている状態だ。人は常にはっきりと、行動だけを、信号を見ながらおずおずと進むのではなく、生命とともに与えられている自分の草ぼうぼうの道や岩石だらけの道を、又は本人が歩くからその後に小道が出来るような旅をしなければ人生を語りたくとも語ることが出来ない。昔から多くの賢人たちは生命には道が失くなってきている事に気付き、その事をその人自身の独特な方法で説明している。
 人には欲望というものが所構わず働くので、人の道は常に修羅場と化し生き方の大きな厳しい問題を作る。天然物は何処までもそういった人の欲望からは遠のいている。大自然はそれ自体一つの大きな約束事であり、決め事であることを忘れず、人間の作るその時その時のたいそう偉そうな法律などはそれ自体欲望の羽が生えているのでこれを脇に置くだけの賢さがなくてはいけない。
 人間の言葉は自分の言葉として生命の中から迸り出る時、そこには間違いなく或る種の覚醒が芽生える。これこそが一人一人の人間に必要なのだ。
# by meisou08 | 2014-06-30 16:59

容疑者


 人は言葉を身に着けて以来、これまでの長い自分の思想の時間の中で走り続けて居る。しかもその走りは徒競走でもマラソンでも何でもなく、ひたすら何かに後を付つけられ追いかけられている容疑者の様にである。言葉が人を猿から解放し人間にしたのだが、大自然の流れの中で言葉はどの人間をも大小の差は有りながら間違いなく容疑者にしてしまった。それでありながらどの人間も出来るだけ早くこの容疑から離れたいと思っている。
 人は自分自身の言葉との闘いに明け暮れている。人の心は例外なく、雑然としている広いアリーナの上の格闘だ。そこで人は情熱と冷たさの向い合った止むことを知らない闘争をしている。炎と氷、愛と憎しみ、希望と絶望などといった対極のものと向かい合いながら直接剣を突きつける闘いをしているのである。言葉は心ある人間の全てをどういう訳か謎めいた容疑者にしてしまう。言葉を真剣に語り考える時、それは何らかの謎めいた所に入り、彼を何らかの容疑者にしてしまう。真実は文化をより明確に表すというが、それ以上に容疑者にとっては解決不可能な謎として、何処までも尾を引いている。誰にとっても言葉との日々の暮らしは、終わりのない謎の物語や歴史のページの流れなのである。
 言葉そのものは単なる日常的な行動として扱っても何の役にもたたない。むしろ神秘な雲行きの中で生まれてくる様々な物語を構成している。容疑者にすぎない万民は己の生命の中に掃き清められず、だからと言って迎え入れる事も出来ない数限りない様々な病原菌を持っている。人は唯謎めいた恐怖心に押されながら走っているだけである。
 人は追いかけられながら、走りながら、 眼の前に照ったり曇ったり雨となったり生まれてくる人や流れていく草木を見ながら、それを木霊として又言葉として受け止めている。なびきながら飛んで行く時間の中で人は労働もし、昼寝もする。風は吹きまくり、雪も降り、月も雲間に入ったり出たり、陽は射し曇り、犬の遠吠えや猫の口に加えられている小判など、人夫々に火事場泥棒のような態度でみている。人は誰でも頬かぶりをして夜の道を走っている。容疑者だけに人は自信を持った大自然のあの天然の落ち着きも確信も誇りもないのだ。人の一生は、自分自身の心の中に自ら作り出した言葉に酔い痴れ、堂々と自分のリズムと自分の中を流れる気によって歩くことが出来る。明るい陽射しの中でも曇り空の下でも雨の中でも胸を張って怖れるもののない自分として歩けるなら、その人は本当に生きているという事実を体験できるのだ。そういう人の中にはどんな意味においても容疑者としての不安感や恐れや、逃げようとして何とか走り出したくなる気持ちは起こらない。
 人の身体の中にはあらゆる種類の細菌や、寄生虫や真菌、更には今の医学などでは、皆目わからない様々な多くの病原菌などが互いに押しくら饅頭をし、デモ隊のように暴れまわり、お祭り騒ぎの人々が酒の勢いで暴れるようにあたりかまわず動いている。この動きこそが人の中の容疑感を益々強くしていく。例え明るい日の光が射し、爽やかな空気の中で万物は何処までも乾燥していたとしてもそこに言葉が入り込む時、そこにはどうしてもその中心が見えずに悩むのである。此の様な心の状態の中で人は常に何事をするにしても考えるにしても、「世間体が大事だ」ということを先頭に置くので、生き方の全域は灰色がかった容疑者のそれに似てきてしまうのである。信じないことを信じるふりをしなければならなかったり、嬉しくないものを嬉しそうにしたり、無いものを有る振りしたり、行きたい所には行きたくないような振りをする生活が日々あらゆる時間の中で起こっている。そんな時、人は世の中はそう自分の思う通りには行かないものだなどと口ずさんでは恨めしげに口を閉ざす。その時、その人の心には世の不条理を恨む心が生まれ、それを敢えて抑えようとする時容疑者としての自分の生き方がぼんやりと見えてくるのだ。
 人は言葉の流れに押されて容疑者になってはいけない。常に自分を全面に出せる事を信じたいものだ。そうする時まともには生きていけないこの世の中だと思う心に人は勝つのである。
 この事を私は冷たいアリーナの上の闘いだと言ったのだ。言葉に誘われて、騙す己の心を温存するような自分になってはいけない。
# by meisou08 | 2014-04-21 11:15

慈雨としての言葉


 隠者が生きている処はそのままで何一つ隠したりする事なしに、聖書が言っているところの逃れの町であり、隠れ里なのだ。今日人間は常に隠れ里の言葉として持っているものをはっきりと自覚しなければならない。漠然と日常の吹く風の中で使っている言葉はどう見ても隠れ里の言葉ではない。世の中は常に魁と言われ、人によって開拓され、道が開かれていく。そしてこの「魁」は「先駆け」を意味しており、文明のあらゆる所で自分らしさを隠すことなく恐れることなく、怖気つくことなく、不安がることなく先駆ける人の現れることを予感したり実際に見たりすることから始まっているのである。
 言葉豊かに、間違いなく自分のリズムの中で生きている人は、この魁の流れの中でその時最も吸収しなければならない大切なものを身に付けてしまう。心が若い人は誰でも良いものつまらないもの、どちらからも大切な物を次々と吸収していく。単なるこの社会の生き方ではなく、豊かな心の中で生きているものにとって無駄というものは一つもない。と言うことは、逆に臆病な精神や恥ずかしさのあまり、そこに飛び込めない人をどうやって招き入れるかということは大問題である。大きな戦いにおいても先頭を切って敵の塹壕に飛び込む兵はそれで良いのだが、どんな部隊にも僅かながらどうにも落ち着かず、恐れおののき、突貫できない者たちがいる。指揮官にとってこの様な魁とは違った人たちを鼓舞する方法は何時の場合でもないようだ。
 かつてハンニバルは巨大な象に乗って突進する魁の部下たちとは別に、そんな大きな象を扱いながら最後の突進が出来ない臆病な武将達も居て、ハンニバル自体彼等をどう扱っていいかは解らなかったはずだ。
 人間の知恵も小器用さもそういったことは第二の問題だ。先ず人は勇気がなくてはならない。どんな意味においても己自身の中の恥ずかしさを脇に置ける人間になりたいものだ。こういった場合、自分の中の弱さを蹴飛ばしながら進み出る魁の思いがなくてはならない。東北地方の遥か奥の方の市に「魁」と名付けられている地方新聞があるようだがそこにも意味あることが込められているようだ。
 或る古い言葉を先ず手にして、これを分解し、切り開いて徹底的にしかも悉にそこから後発言語を生み出し、人々の前で使える人が本当の詩人なのかもしれない。その時こういった詩人は間違いなく先駆けの人間だと理解して良い。高い理想や大きいな夢や輝かしいばかりの信念というものの雨、即ち慈雨が降ってくると、人々の心にそれがどこまでも深々と染み込んでいく。慈雨が染みこんでいくのを見るのは何とも幸せなことだ。残念ながら数多く存在する現代の言葉はどう見ても慈雨ではない。人の心に染みこんではいかない汚染物質にも似ている。最近はこの世の中に様々な汚染物質が多く存在し、人が生きるために作らなければならない作物の為に必要な土壌さえ放射性の化学物質化したセシュームのようなもので満ちている。放射性の多い様々な廃棄物も人の生活の中に入り込んできている。陽光の中に見られる生命維持のための放射物質には段々と人間が加熱処理をしていかなければ安心して使えないようなものになってきている。この世の中は最近、生命体がそのまま安心して暮らしては行けない場所になっている。他の動物たちや虫たちはこのことを知らずに生きているので、それはそれで別の形の幸せ、又は幸せらしく人間には見える幻影かもしれない。人間はこの不吉な現実に晒されており、それゆえに生きている今を恐れる不幸な人種に成り下がっている。
 キリスト教の一派である聖公会は、ロシヤや東ヨーロッパの民族の間に広まっているが、彼等は一般に日本語では聖画像と呼ばれているあのイコンをとても重要視する。彼等の教会の中には間違いなくイコンが飾られている。このイコンの力と言うか、精神的な勢いというものが、やがて共産主義の働きの中で大いに利用される事になった。かつてのイコンはマルクス、レーニンの時代には彼等の本を読むべきだと叫ぶ人達が現れ、「イコン」の代わりに「書籍」(マルクス主義)を読めと叫ばれるようになった。今日共産主義は自ら幕を引いた形で消えていった。人間は自らを人として生きていくために全く新しい目で書籍を見なければならない。書籍は言の葉として使われる時、使う人間はその言っている通り「人」になって生きる事が出来るのである。言葉は慈雨となってさんさんと生命という土壌に降ってくる。それを信じたいものだ。
# by meisou08 | 2014-03-03 10:38

条理に叶った躰と生命

 生命とはどんなものでも、例え人でも虫でも花でも太陽の様々な炎を、つまり、光や陽火を充分浴び、そこから躰が出現している。太陽という恒星からの数限りない弱い放射能にあたって、つまり陽火に焙られて出現した生命はどんなものでも、夫々のその陽火の烙印と寿命というものが一枚のその人の名刺のように与えられている。天然は自然そのものであり、陽火の勢いの理に叶い、生命一つ一つの条理となっている。その条理は躰の理であり、基である生命の本性(すがた)なのである。
 自然の中に芽生えてきた生命を運んできたり止めたりする運動のことを、つまりそれは「運命」と呼ばれているが、自分の生命をその出現から滅びに至るまではっきりと今という時間の中で見極め様としたがるのも人間である。宗教も哲学も占いも文学も他の様々な分野の芸術も、本来人間には不必要なものだ。己の生命をしっかり掴んで居るならば、万事ことは足るのである。生命の基本とも言うべき精髄は魂や心であり、それを生きている生命の場合は魂といいつまり言葉で言えるものであり、一旦死ぬと魄と呼ぶようだ。生きているうちは太陽の様々な微妙な放射能に晒され、この魂のことを時にはもっと現実的な行動と考え、気とも呼ぶことが出来る。実際そのように気と呼んでいる人も中には居る。常に生命の全域に広く流れている気は恰も流れている水のようなものだ。気は体で感じたり気付くことはないものだ。大抵の人にとっては普通電気や磁気のようには感じられないのが極めて自然なのだ。気を理解するためにはこの事をしっかりと納得しておくべきである。生き物の躰と心の両方共に繋がっていて、一つの流れとなり味となり、離れることのないリズムとなっている。虫けらが可愛いと思えるのも、人が頼もしいと思えるのも間違いなくこの生命の味の作用であり、それを屡々人間は人の世の軽い言葉、「情」でもって誤魔化している。陽火に逆らい恒星から流れてくる数々の放射能の重なりの中で生命が作られる時、その行為から生まれた結果を分限と呼んでいる。人間以外の生物にも上下の差はあるとしても明らかに分限は備わっている。生命のこの行為、つまり分限を忘れているなら、どんな生命でも生きていくことは出来ないだろう。虫は蛙に飲まれ、蛙は蛇に呑まれ、獣達は蛇を殺す。そして人間は野菜と同じように極めて自然にそういった獣を料理して食べる。
 あらゆる生命は夫々に分限の中で生き死に、人間もまた文化とか文明と言う名の下で、明らかに自分が束縛されている分限を自覚しているのだ。分限から些かでもずれる時人間は人ではなくなる。分限からそれ始めると、人は何らかの病で心や身体が苦しんだり極端な場合は言葉を失くし、口を閉ざし、発狂することもある。原発に携わったり宇宙に向かう飛行士達も口を聞くのを忘れ、宗教家になったり、中には発狂するものもも居る。生命を生命として全うするためには極度に高い放射能に触れたり、分限から外れ宇宙に飛んではならない。微弱な光として、また線としての放射能の違いは、生命を適度に温めてくれる火や光と、物を焼き尽くしてしまう烈火との違いとして比較することが出来るだろう。この違いを明らかな心で見つめようとする時、そこには分限の恐ろしい乱れが生じる。分限が乱れる時、天来の録、つまり「天録」がその人の生命からずれ落ちてしまうのである。自然の恵み、天然の豊かさ、又は生き方の全域を納得させる天録がある限り、生命に暗さは生じることはない。人間以外の全ての生命体は動物であろうと植物であろうと間違いなく分限を弁えて生きているので、夫々大小様々な天録に与っているのである。
 人は自分の言葉の中に気の流れを清濁のまま持っている時、常に陽火の中で自分に合う、つまり分限そのものの生命を与えられていることを感謝したいものだ。

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# by meisou08 | 2014-01-21 17:00

言葉の体質

 人は生きているあらゆる時間の中で、赤い心や熱く燃えている精神が存在するならば、生命はどんな時でも安心である。一見危険な状態にあろうとも結局最後は上手く落ち着くものである。 
 汚れていない全くの白地に赤い心がくっきりと染め上がっていてこそ、日本人は本当の日本人になれる。敷島の心は何処までも大和のリズムの中で自信をもって進むことが出来る。国旗がその国の民族をそのまま単純に誇っている訳ではない。国史の中で伝えられている神話も英雄譚も昔話も偉人伝もそのまま国旗の本来の意味とは繋がるわけではない。生まれてきて敷島の風の中で、陽の光の中で、山桜の殆ど赤みのない桜の色合いの中で、はっきりと生きている自分と重なって見える旗が何時もなびいている。海幸山幸の深々とした喜びの中でどんな權力とも関わりなく、そこに存在する自分を喜べるのである。この喜びがある限り人はどんな逆境の中でも崩れることなく、又豊かな国の発展の中でもそれを単に誇るだけではなく、むしろ天然の流れを見つめ、涙を流したり今の自分を深々と考え落ち着いて生きられるのである。
 人の心は白地に赤く染め上げられた状態でなければならない。生命の在り方が、活動の仕方が、良くも悪くも、その中心に常に白地に赤く染め上がった言葉があるならば問題はない。人を殺すとか、笑うとか、汚れた心で生きている人はその傍らどんなに善行を積もうとも、それで生き方が免罪されるものではない。もともと生命はごく自然に大自然の中から生み出されたものであり、本来は痛み多く悲しみ多いものなのであって、心の流れである善行を積んでも、それで追い付くものではない。大自然そのままの在り方、天然そのままの流れの中で人も他の動物のように、又他の植物のように素直になれる。この場合素直さとは素朴さのことであり、限りなく純朴で萎れた花のようなことば使い方を指して言っているいるようだ。つまり美しく見せることも誇り高く両手を広げることも、自信をもって両足を進め前進だけをすることも、それだけでは何かが不足している。抑える場合、口を閉じる場合、手を下ろし足の歩みを止める場合も常になくてはならないようだ。
 言葉を持つようになった時、恐らく猿人はそれまでの吠え声や叫び声の脇に言葉というものを持つようになったが、そのころとても悲しい念いを抱いたに違いない。猿達は明らかに天然の流れを実感し、大自然の動きをそのまま動きとして、自分達の生き方の中で実感しているはずだ。残念ながら猿人たちは遠い昔この体験を棄てさってしまった。言葉が余りにも多くなったので生命としての善行を積むチャンスをかなり多く失ってしまっている。言葉のある今日、これによって幸いを求めようとしている。とんでもない間違いだ。言葉を自由に話すことによって口が幸を求められると思ってはならない。本来人は言葉を持っていなかった頃の素朴さの中で何処までも広がっている自然の子になろうとする素直さがなくてはならないし、猿人であった頃でさえ、既にそうでなければならなかった筈だ。天然の流れの中で許される素直な生き方でいられたことをもう一度思い出さなければならない。
 その昔人は驚くべき幸運に出会い、宝くじなどよりは遥かに当たる確率の低い火と言う物を発見したり、当選してしまった。その後同じように途轍もなく喜ばしいチャンスとなった言葉に当たってしまったのが私達人間である。人はそのことによって「不幸」という宝くじのようなものに当たったのである。しかしこうして考えてみると宝くじに当選した人と些かも変わりなく、言葉に当たった人は途轍もなく大きな重荷を背負わされることになったのである。この重荷を幾らかでも軽減する為には旗が閃いている。白地に赤く染められた心の熱い旗、この旗が燃えている限り極々僅かだろうが何一つ善行を積む事が出来ない人でありながら、与えられた寿命を全う出来るのだと思う。
# by meisou08 | 2013-12-12 18:10