
まさに「賢人の庵」にふさわしい指針です
by meisou08
現代という時代の中で生きていながら変わった人物と言われるのは、おそらくその人が現代社会の中の生き方から、何処か外れているからかもしれない。現代社会の中の生活という常識からはみ出た生き方を、部分的であって決して全面的ではないにしても行っている場合、そういう人は珍しい存在だと言われるようだ。
しかしそれ以上に現代の人としては何かが大きく異なっているとみられるのには、しかもその度合が周りの人にとって忘れられないほど深いものになっていくのには、そういった社会的な生き方の違いぐらいでは人は驚かないのである。社会や人が驚くためには極々僅かでも良い、その人の言葉遣いの中から常識的な匂いのする日本語が、又世界全体的に言うならば自分の母国語から常識的な語彙が消える時なのである。本来の自分をはっきりと打ち出すためにはほんの僅かで良い、二、三の非常識な語彙やフレーズを口にしたり行動の中で表せば良い。尤もその非常識が語彙や考えが間違いなく本人に確信を与えていなければならないことも事実だ。こうなってくると自分の中に又言葉が紡ぎ出される精神の中に、確かな自分の確信の思いから出てくる言葉に自信がなければ、一言でも非常識の言葉を発言することは出来ないはずだ。
此の様な自分が信じ、人々が驚きビックリするような言葉は、単に言葉やフレーズと考えてしまうのはおかしいのかもしれない。こういったものは一応誰もが信じ尊敬する箴言であったり、格言として通る筈だ。そういったものにぶつかるその人の心や精神といったものは、言葉に又フレーズやクローズに、ただ単にぶつかった訳ではない。ぶつかったというよりは、心の気付きであり精神の撃たれと見たほうが良いかもしれない。こね回され掻き回されている言葉やフレーズの混沌の中で、現代という流れの中に生きている人は己の生命をどう扱って良いか、どう表現したらよいか解らないでいる。言葉はあらゆる面で人の日々の生活の中で多面性を見せており、人はそういった言葉の面と向かい合う時に戸惑ってしまうのである。人は体で呼吸し行動の中で常に急いで走り、疲れは何処までも続いていく。しかし言葉と向かい合う時、しかも自分自身の生命という存在の中の休みない動きの中に向かう時、人は誰でも心の呼吸をしなければならない。常に言葉を生かすためには長くて深い精神の呼吸をしなければならない。心や精神がこの呼吸を忘れているのが現代人の生き方そのものなのである。これは致命的な人の生き方の病を作っている。
現代人は心と精神の中で殆ど呼吸はしていない。だから金や物によって身体は安心出来ると思ってはいるのだが、生命そのものは常に些かの落ち着きも休みもとることが出来ないでいる。心の休まらない人や精神が落ち着かない人の集りであるこの社会を凡人の住むところとか、常識人の住む世界だと考えるならば、非常識でありながら、そこにはっきりと自分を持っている人のいる場所は稀なる人の世界だと言っても差し支えない。昔日本語にまれびと;稀人、つまりそう簡単には世間に現れない人物を指して言う言葉があった。しかし今日では最も素朴で単純さ極まりなく教養もなければ金や物にあくせくしながら働かない人を意味するのに、この稀人という語彙は適しているようだ。お宝とか宝物と言われる言葉が、仕事もせずぶらぶらして適当なことを言っている人を指しているのとどうやら同じかもしれない。
有史以来こう言った稀人と呼ばれた人はあまり居ない。敢えて居たとすればデオゲネスぐらいかもしれない。極東に於いては荘子が描いている何人かの人物像や、蒲原郡辺りを乞食をして歩いた良寛ぐらいではないだろうか。人が本当に大自然と繋がって自然に生きられるのは、この種の稀人に近いものに近づかなければならない。
自分の中に閉じ込められている感覚は、本来、人を解放する自由な感覚ではない。自然に向かって欠伸をしたり、自然の一部になって行動出来るものであって初めて自由な感覚と言える。自分の内側に閉じ込められている言葉や心は、ベタついている身体の産物であって、それは天然の広がりの中で表現できる自由自在な感覚ではない。何時の時代でも人が喜んで、これは良い薬だとか、内容豊かな健康食品だと信じているもので本当にその通りであるものは、殆ど存在しないのが現実だ。人間が何処までも追求し、研究している様々なものの中でもその先頭に置かれているものは医学であろう。しかしそれでいてなお最も遅れているのも医学なのかもしれない。万事にピンチに立たされるものが有ることは事実だ。最も大切なものやその大切な問題を解決しようとして人間が力を入れようとする時、その研究過程はどんな場合においてもピンチそのものであると見ている方が間違いない。自分自身の言葉がピンチに置かれるとき、それは間違い無く本当の思想が生まれる原点がそこにあると知らなければならない。
思想は言葉という酵母によって醗酵し、その一つひとつの断片は正しく整理されるとき、様々な問題に繋がる確かなノートの役目をしている。従って一流のメモは間違いなく何かしら重大な問題を解決するノートになることは確かである。
言葉はその人間の確かなリズムそのものであり、同時に豊かな環境そのものである。生命という流れと調和する力である。
物を書くということや喋るということは、間違いなく人間環境の歌であり、それが高じてくると踊りとなり、空高く舞い上がるコンドルの行動となる。だから人は内側に閉じ込められている己自身をこの言葉という環境の下に引き出し、限りなく自由に踊れ!言葉よ、何処までも飛べ!環境は止まってはならない。滞りなく流れていなければならない。自分のリズムで生きよ!やはり言葉は何と説明するよりもリズムとして理解しなければならない。己自身の豊かな環境そのものだと自ら信じなければならない。しかし、それだからと言って、自分は完全だと思ってはいけない。そう思う時、青春時代の人も、壮年期の人も、老年期の人も、全て老いてしまう。玉手箱の蓋を開けた浦島太郎になってしまうのである。
人は幾つになっても、生まれた時に持たされてきたパンドラの箱を開けてはならない。どんなに華やかな時も、苦しい時も、悩む時もその箱の蓋を明けない限り、その人は自由に自分の言葉を語り書き歌って生きることが出来る。言ってみれば私達の言葉は数多く存在する単純な、また難しい漢字そのものなのかもしれない。漢字の限りない数の多さはそのまま私達のパンドラの箱の中に入っている苦しみや痛みの数なのである。
その点ローマ字も仮名文字もアラビヤ文字も余りにもその数が少なく、単純で有り過ぎるのでパンドラの箱の中の数多い不幸を背負うことは出来ないようだ。つまり言葉という精妙な人の中のエネルギーのピンチの一角を担うことは出来ないでいる。それが出来るのは確かに何処までも正確で精密で難しい漢字に許されることなのであろう。
人は完全ではあり得ない。それと同じく言葉も思想も完全ではない。その不完全の一次元の中に、四次元五次元の物を見詰めようとする人の心を結びつけのは容易な事ではない。そこには常に始めから厳しい問題が用意されているのである。
自分の言葉の本当のピンチをはっきりと知りながら生きていこう。
僅かばかり暖かくなった春の日差しを三重ガラスの窓の外に見ながら、私は終わってしまった冬のことなど忘れたように、この文章を書いている。それにしても実に長い気分を与えていた今年の冬だった。小寒も大寒も左程変わらず寒かった。日本中何処も彼処も雪だらけだというのに、岐阜県を形作っている美濃はどういう訳だか寒いにもかかわらず、雪という雪は余り降らないこの冬だった。それに比べ同じ岐阜県でも北の方の山陰に広がる飛騨地方は全く別だ。今年も越前、陸中、越後といった北陸の雪深い地方と同じく、岐阜の北の方のこの辺り、即ち高山や白川は長い雪の中の冬に閉ざされていた。
トルストイが書いている長い冬の、日差しが殆ど絶えている地方では確かにネフリュードフやカチューシャのように春を待つ心の喜びには一方ならぬものがあった。様々な色の小さな花が咲き乱れ、氷は溶けて小川に流れを作り、人の心は夫々に復活祭を待つ喜びで満たされるようになる。
私達日本人は梅の紅や白に心を目覚めさせ、やがてピンクの桜に酔い痴れる。ところが白人たちは単なる桜色の趣とは何処か違ったピンクに心を踊らせる。彼等の心には東オリエントの私達の桜色とは何処か違った色合いに心躍らせる春先がやってくるのである。
彼等の春を表す色とはクラシック レッドである。日本人にはピンとくる色合いではないかもしれない。クラシック レッドとは、桜のあの清らかな色とは何処か違い、少し汚れたところが春の光にあたって薄くなっているピンク色なのである。それは日本人の最も嫌がるくすんだ赤錆色である。こんな色のワイシャツの襟にはボタンダウンの飾りが付き、しかもその生地は小さな東洋のワイシャツの生地とは違って北アメリカに連れてこられた黒人たちが、白人に使われて育てたかなり大きな綿で作られたコーマ又はコムド製のシャツなのだ。こんなシャツは着れば着るほど古めき、いわゆるコムドコットンであって春先の若者達を一層イヨロピアン的に美しいものにし、トラデッショナルな行動の喜びを見せる。
このワイシャツの上に薄い生地のジャケット、即ち背広をはおり、女性の柔らかな手によってミシンを動かし縫われていったズボンを穿くなら、それは正しくアメリカ的な、又はカナダ的な若者の喜びの服装であり、カジュアルなスタイルとして理解されるかもしれない。特にクラシック レッドの錆色のピンクにシャツなどが彩られて居り、ジャケットもズボンも夫々に何となく柔らかで灰色がかった紺や茶色で染められ、どことなく古びている感じがするなら、それは彼等若者たちの父親や祖父たちの誇り高かった色であり、ピースメーカーなどの銃口から臭いだす硝煙の匂いさえ感じるのである。アメリカ新大陸が発見され、五大湖の畔に白人たちが住み始め、ミシシッピー川やアパラチヤやロッキーの麓の春も、此の様な服装の人々によって賑わっていたに違いない。
日本の今年の冬の寒さの中で、私は近くの老人達があたっている東屋の囲炉裏の火にあたるため、盲縞の着物を身にまとい、角帯を締め紺の木綿のモンペを穿き、綿入れのつん抜きを着、足袋に草履の姿で度々出かけた。
春はやはり日本では桜色の季節だ。しかしそこに着物姿は滅多に見られない昨今である。私も又この春、敢えてアメリカンドリームと関わる訳ではないが、ボタンダウンの縞のワイシャツの上にアメリカンコットンの薄いジャケットやズボンを身に付けて散歩などしたいと思っている。
常に季節は変わる。冬は何時でも長く厳しい時間として人々を押し付けている。その押し付けが長ければ長いほどやってくる春は待ち遠しい。心の中の桜色が爽やかなものであっても、錆び付いたものであっても、人は冬からの脱出を心から喜ぶのである。
この文章を書き終えたら、私はガーシュウィン作の『アパラチヤの春』を聴きたくなった。
何事も、こちらの気持ちに関係なく極めて自然に棄てられていき、又離れていく。物事は全て良いものであったり楽しいものであったり、願い通りのものであるとは限らない。こちらの思いとは違い、短かったり何処かが欠けていたり、更には歪んでいたりするものが殆どである。しかし、この世の中をよく見ると、大自然の中の全てのものは何処かが欠けていたり短かったり歪んでいたりすることを私達はよく知っている。長い間の人生経験を通し、人は其の様な気に添わないものであってもそれを捨てる気にはならないぐらい存在者としての何かが何処か重々しくなり、吹けば飛ぶような軽さは消えている。尤もそうでなければ嵐の多いこの世の中に重心をおいて生きて行くことは出来ないはずだ。一寸した風に揺られて飛ぶような小さな虫ですら、自分を支えて与えられた寿命を全うしているではないか。欠けていてもいびつであってもそれによって品格が現れ、十分存在するだけの飾り甲斐があるものに殆ど全てのものはなっていく。
存在する万物もそれを見ている存在も、確かなプラス思考の一粒があるならば、万事は変な方向に流されることなく存在できるのである。金銭でもなく、肩書きでもなく、深い知識でもなく、只確かでささやかな単純な心でプラス思考があるならば、目の前に何がないとしても些かの心配もいらない。「待てば海路の日和あり」と昔の人はよくもいったものだ。この事を己の中の習慣として身に付けていくなら、それはもう一つのその人の言葉のシンドロームとして大きく働くのである。人の心はそのまま今言ったようなシンドロームである。鍛えれば鍛えるほど確かなものになっていくものではないかもしれないが、どんなに欠けていても歪でいてもその存在の中心である心は単に当てもない方向に押し流されることはない。そういったシンドロームは、様々な種類の「道」とは違って力一杯鍛える必要はないのである。確かに鍛えれば鍛えるほど腕は上がってゆき、何処までも精妙な達人になることは出来る。しかし素朴な人間として自分らしく生きていこうとするためには敢えて努力をして鍛え抜いた存在にならなくとも良い。その代わり、己の中に働いているそのシンドロームが何処までも整えられたものでなくてないけない。欠けていても整えられていればよく、例えどんなにいびつになっていたとしても、そのいびつさを鍛錬しようとする時、問題が起こるが整えるとなるとそれは十分行われるはずだ。素朴さも常に整っているならそこにそれなりの大きな力が働きかける。 奇跡というものを自分の中の自然な生活の中に見ることがある。確かに不思議なことが人の周りには近寄ってくる。私達はそれをそのままにせず、敢えてそれに接近し、等身大のその不思議を拡大して見つめる時、そこにその奇跡に似たものが些かも奇跡や不思議なものではないことに気付き、それが常日頃の行動の中の一つであることに気付く。人は常に物事に不安がっていたり、マイナス思考で生きているならば、それは一種の冷え固まった機械現象というべきである。凍えているものも、冷えたものも、それらは潤いを無くしている流れない血液であり、川の流れなのだ。人はこの状態から離れなければならない。言葉は確かにあらゆるものの温度を高くする。その温度が更に上がると発火する。山の噴火などは、この現象の局地に達したものかもしれない。人はあらゆる生命体の存在をなんだろうと考え、それを生かしてくれている時間というものや、生命の存在は何を意味しているのだろうかと訝るのである。そしてそれらにより近く接していくのだが、その奇跡は何時になっても日常の物事としては見えてはこない。等身大のものに置き換えてみても、それは日常の当たり前のものとしては理解出来ないであろう。これらは決して奇跡ではないが、それだからと言ってスピリッチュアル的なものとして理解しようとしてはならない。
言葉は大切なものだ。こういったことに関しても成果を発揮するのは言葉だけである。己を鍛えるのではなく、己の心を整えている生き方を日々したいものだ。
人間は誰でも自分の生きている文明時間の何処かの曲がり角において、自分に固有な空気の流れを感じ、そこで特定の流儀、即ちシステムでなければならない自分の方法にぶつかるのである。自分の生命の中に埋め込まれている特定のリズムに慣れてくると、他の誰とも同じシステムに戻ることは、なかなか難しい。
自分がその時代の流行や形や行動、又言葉の使い方やその時代において尊敬されたり感謝されたりする態度がどんなものかということを納得していてそれから離れる事はなかなか出来ないし、それから離れて自分特有の流儀に徹底しようとする気持ちは薄らぎ、そうすることによって上手く人々の間で生きられない事も様々な数多くの体験から得て、結局は個性を持った人間として生きることの難しさなどを知ってしまうのである。豊かな己自身という生まれながらの性格や好みは、可能な限り袖の下に隠し、誰もが理解できる平均的な、余り目立たない存在として生きる方が穏やかに暮らせると考えてしまうのである。言葉を持っている人間はどうしても一人一人個性を持った豊かな存在として本来生まれてきているが、数多いあの昆虫たちや魚達、又鳥達は一つ一つ殆ど同じ形で中身さえ殆ど変わりのない鯛焼きのように出現し消えて行く。そこには身体の作りから泳ぎ方、飛び方、更には天敵に食べられていく形さえ、殆ど同じであることは何とも悲しい個性のない人の存在を思わせている。
個性豊かで、生まれ育ちが良く、学ぶにも走るにも兎に角周りのものを圧倒するくらい出来のよい人間というものが一人二人あらゆる種類の集団の中に現れるものである。そういった人間をカリスマと呼び、天才と呼び、大多数の人間はそれにあやかろうとしたり、何とか一部でも真似をしたりするものだ。しかし大多数の人々はなかなかそこまではついて行けない。
どんなに大国の王や大統領であっても、偉い法王や学者であっても彼等が着ているのか又着せられているのか知らないが、それぞれ独特の法衣といったものがあり、考えられないほど高価な背広やネクタイでもって身を飾っている。
此処で一言私は言いたい。どんなに偉いことをこういった人達が話しても、その法衣などを着ている姿を見ると生きていることには然程威力のない言葉しかそこからは出てこないことが歴然としているということを。
科学と同じく神仏も信じたり、崇めたりする対象物ではない。浮ついていない時の自分の目で見ているものや自分が今紡ぎ出している言葉のみに向かわなければいけない。
神や仏という大多数の人々が崇めたり口にするものは、単なる神話とか伝説と呼ばれている一種のその地方の心の片隅に響く音楽とも言うべき民謡に過ぎない。人はそういった自分の心が騙されているものから離れて、遠い時代に原人の素朴な一言半句のような自分の心から噴き出す言葉に向かう時こそ、人は確かな自分に戻れる一瞬なのである。
人は誰でも自分の生きている時代の流儀に沿って生きているのだが、本当の自分を直接大自然と直結させる為には自分の特定の流儀を守って生きなければならない。つまり個性豊かな自分であることこそが、最も安心して与えられた自分の寿命を過ごせる時間なのである。
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人間は誰でも自分の生きている文明時間の何処かの曲がり角において、自分に固有な空気の流れを感じ、そこで特定の流儀、即ちシステムでなければならない自分の方法にぶつかるのである。自分の生命の中に埋め込まれている特定のリズムに慣れてくると、他の誰とも同じシステムに戻ることは、なかなか難しい。
自分がその時代の流行や形や行動、又言葉の使い方やその時代において尊敬されたり感謝されたりする態度がどんなものかということを納得していてそれから離れる事はなかなか出来ないし、それから離れて自分特有の流儀に徹底しようとする気持ちは薄らぎ、そうすることによって上手く人々の間で生きられない事も様々な数多くの体験から得て、結局は個性を持った人間として生きることの難しさなどを知ってしまうのである。豊かな己自身という生まれながらの性格や好みは、可能な限り袖の下に隠し、誰もが理解できる平均的な、余り目立たない存在として生きる方が穏やかに暮らせると考えてしまうのである。言葉を持っている人間はどうしても一人一人個性を持った豊かな存在として本来生まれてきているが、数多いあの昆虫たちや魚達、又鳥達は一つ一つ殆ど同じ形で中身さえ殆ど変わりのない鯛焼きのように出現し消えて行く。そこには身体の作りから泳ぎ方、飛び方、更には天敵に食べられていく形さえ、殆ど同じであることは何とも悲しい個性のない人の存在を思わせている。
個性豊かで、生まれ育ちが良く、学ぶにも走るにも兎に角周りのものを圧倒するくらい出来のよい人間というものが一人二人あらゆる種類の集団の中に現れるものである。そういった人間をカリスマと呼び、天才と呼び、大多数の人間はそれにあやかろうとしたり、何とか一部でも真似をしたりするものだ。しかし大多数の人々はなかなかそこまではついて行けない。
どんなに大国の王や大統領であっても、偉い法王や学者であっても彼等が着ているのか又着せられているのか知らないが、それぞれ独特の法衣といったものがあり、考えられないほど高価な背広やネクタイでもって身を飾っている。
此処で一言私は言いたい。どんなに偉いことをこういった人達が話しても、その法衣などを着ている姿を見ると生きていることには然程威力のない言葉しかそこからは出てこないことが歴然としているということを。
科学と同じく神仏も信じたり、崇めたりする対象物ではない。浮ついていない時の自分の目で見ているものや自分が今紡ぎ出している言葉のみに向かわなければいけない。
神や仏という大多数の人々が崇めたり口にするものは、単なる神話とか伝説と呼ばれている一種のその地方の心の片隅に響く音楽とも言うべき民謡に過ぎない。人はそういった自分の心が騙されているものから離れて、遠い時代に原人の素朴な一言半句のような自分の心から噴き出す言葉に向かう時こそ、人は確かな自分に戻れる一瞬なのである。
人は誰でも自分の生きている時代の流儀に沿って生きているのだが、本当の自分を直接大自然と直結させる為には自分の特定の流儀を守って生きなければならない。つまり個性豊かな自分であることこそが、最も安心して与えられた自分の寿命を過ごせる時間なのである。
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人は誰でも使おうと使うまいと、間違いなく一つの「蔵」を持っている。人の生き方の中や、心の中にはどうしても蔵は必要なのだ。蔵に入っているものは、正しくその人の所有物なのだが、必ずしも蔵から外に出されるとは限らない。中には生涯蔵の中に納められているだけで一度も外に出ないものもある。
蔵に入っているもので確かなものは言葉である。言葉は内側で表現されて思想として熟成するが、やがて外に出て大きく花開く時、野の花のように存在感をはっきりと表し、その人の全てを表現する色とりどりの花びらを周りの風になびかせる。
言葉は水や風や火によって発電するものではない。本格的、というよりは太陽の光線によって常に自由自在に発電するものなのだ。人はそれを人間の精神とか心の働き又は生き方そのものというのである。太陽光線の働きによる言葉の動きはそのまま人の生命の働き、行動を意味している。文明の言葉は単に壁に描かれた絵に過ぎない。生き生きとした生き方になって時間の中に暫く流れる時、そこに人生とういう名の勢いある気の記録がなされるのである。
確かに人の言葉は袖摺り合う心の又は精神のバザールであると言えるだろう。そこにはオーガニックな精神の流れるオアシスがあって、人の心のアグリカルチャーが存在する。
言葉という名の気と触れ合う時間はとても大切だ。人間以外の生命体には人の言葉と同じような気の働きはないにしても、それに近い微かな気が動き、中には尾びれ、背びれ、触角や奇妙な舌などの動きの中で、ある程度人の言葉のような通信が可能であるのかもしれない。
黄金やダイヤモンドが「パワー ストーン」ではないことを人は誰でも知っている。文明の時間の中で人は心を大きく曲げてしまい、金銭欲やダイヤモンドに目が眩む様になってしまった。人の中から紡がれる素朴な砂粒のような言葉一つ一つこそ、その人の存在を表しているのであり、それだからこそ、言葉は間違いなく「パワー ストーン」なのである。
名もない言葉はクライン バルトと呼ばれていて、人の心の中でまるで野の草のように生えているが、グロス バルトに変化すると、言葉は様々な経典などに変化する。かつてルターや法然上人達が信じ口にしたバイブルや経典の中の言葉は確かに大いなる言葉であり、ダイヤ以上に光る言葉であったはずだ。
自分自身のスタイル又は生き方、考え方、行動の取り方を発見し、見詰めてみる態度はそのまま別の言い方をするならば、自分の心から流れ出してくる言葉の発見であり、同時に生きる行動の発見なのである。心の中のその人なりの蔵から生命の言葉を掴み出して外に出す行為は、長い間闇の中に置かれていた生き物が突然まっ昼間の外に引き出されたのと同じであって、そこには瞬間に天地のひっくり返るような強烈な刺激にぶつかる。それでも敢えて人は一度ならず、そのように内側に閉ざされていた自分の言葉に接触しなければならないのである。
私の中のガーデンテラスは今この鵜沼の丘である。誰でも自分の周りにどんな所よりも間違いなく正しいガーデンテラスを持っていなければならない。
言葉という微生物は人の精神のための間違いないダイエットを行っている。それにはどうしても自分に叶ったガーデンテラスが周りに用意されていなければならない。常に自分らしく魂の相撲の取れる自分自身の土俵として、このガーデンテラスは必要なのだ。
総ての生き物にはそれなりの形の好き嫌いがある。勿論人間もそういった生命体の中の一種なのである。このどうしようも無い好き嫌いの感情は、その存在の個性を作っていることも事実である。豊かな才能として異常に伸びていくことも事実である。誰とも変わらず、極めて平均的な長さ、厚さ、重さ、色合いなどが示しているあの平均感覚は、周りの者にとってなかなか覚えずらく後々まで残りずらい存在となってしまう。誰にとっても重すぎて、窮屈すぎた性格からは遠ざかるものである。それでいて不思議なことはこういった個性豊かな存在であって初めて長い時代を経ても私達の心の中にはっきりと存在を残していることも事実だ。
しかし大きな問題となって遺るのもこの豊かな個性であり、それを実感する周りの人の存在である。
旧大陸から新大陸にメイフラワー号で渡って行ったピューリタン達は頑として妥協することのなかった彼らのプロテスタントの信仰の態度を、高らかに掲げて新大陸に新しく生きる自分達の世界を見出そうとした。多少は傲慢で威張りちらし、赤い肌の先住民族達を蹴飛ばし追い散らし、しかも同時に共に生きようとする心も見せながら、アメリゴ ベスプッチが口にしたこの大陸を彼の口癖の名によって大きく世界に現していった。それからの歴史の中で旧大陸の暗い心の白人たちが驚きをもってアメリカ人達を仰ぎ見、感動し、彼らのように人間同士が共生していけるのは見事なことだと言わんばかりに、例えば「自由の女神」のようなものをこの国に捧げもしている。旧大陸のラファエル大佐などは自分の部隊を率い、独立戦争の中で苦労しているアメリカ軍に加勢をしていたではなかったか。
こんなに人間が他の人間を愛し尊敬し誇ることの良さを知っているアメリカ人の極々一面だけの心に、この私はかなり若い頃ぶつかり、かなりいじけており、傷だらけの心を癒されてきた。その後世界の何処の人間とも変わらず、結構えこ贔屓をし憎み馬鹿にもするアメリカ人達を見ながらも、私はそういったことには些かも引き回されることなく、私の第二の故郷はアメリカ合衆国だと思っている。こうして八十年近く生きている私の多くの時間を支えてくれているアメリカ人という、一言で言うならば優しく愛せる人達に私は取り憑いており、決して離れることはないはずだ。
1916年にアメリカの大統領フランクリン ルーズベルトが宣言した四つの自由は、私達全世界の人々を感動させている。自由と平等という名の下にどんな人間も自由に言葉が話せ、自由に食べていけるだけの権利を持ち、何をしゃべっても許される自由があり、更には何を信じても決してそれを蔑ろされることのない世界が、この地球上だということをルーズベルトは宣言したのである。世界の全国民の名によって彼はこれを宣言したのだ。
それにしても此の様なアメリカ人という白人の間には今なお、ワスプ(WASP)という言葉が嫌らしく残されていることは何とも残念なことだ。ワスプ即ち白人、アングロ サクソン、プロテスタントという「アメリカ最上級の階級」を表しているエスタブリッシメントが心の中に働いているアメリカ人が一部いることは何とも残念なことである。それを完全に払拭する時アメリカは一層アメリカらしくなることを私は知っている。
燃える心だけが生きた言葉を生む。燃える歌だけが人を活かす。燃える行動だけが愛の態度なのだ。燃えることは生きることだ。燃えることは燃える生き方から自分自身という何かが確かに生まれる事だ。燃える情熱の中で生きる時、短い人生は楽しくなる。燃えることは完全な自分に成り切ることだ。燃え切る中から自分らしさだけが生まれる。燃えるところに滓は決してたまらない。燃えるところには夢多く、常に黎明の彼方が広々と見えている。夢多い黎明の広がりの中にしか本当の自分の言葉はない。それ以外のところには常に閉じ込められ、縛られ、戸を閉められた悲しい勢いのない、痛み多く愛もない言葉しか生まれはしない。もともと人生は誰の場合でも、何時の時代においても、何かに閉じ込められている。ジャンバルジャンのように、俊寛のように、更にはモンテ・クリストのように閉じ込められているのである。
嘘と真が混じり合っているこの世の中を、私たちは文明社会と呼ぶ。文明時代は文化という装飾された言葉や行動によって見事に美しく飾られている。嘘も、痛みも、苦しみも皆美化されている。愛と情と言葉と闇が一つとなって妖怪の世界を作っている。人はこんな時代を歴史の中でいかにも雄弁に語り書いて自分を誇っている。歴史のページは総てどのような解釈も出来る。歴史の中の人物や彼らの生き方は人によって良くも悪くも美しくも汚くも解釈できる。その人間が思っている心のままに如何にでも述べられるのが、何とも便利な歴史なのである。奉って尊ぶのも歴史ならば、燃やしてしまうのも歴史のページなのだ。情念豊かな人間とはこういった心を自分の背後に背負って生きている人のことだ。
言葉の「能」が人の中に入ると、つまり被曝するとそれを受けた人は大いに変化していく。その変化は変異と呼ばれる。この力が入っていない言葉はどれほど美化されていても、文学として又科学として立派に見られても本当に役に立つ言葉とは言えない。
能力豊かで勢いある、まるで雷の一撃のような言葉を全身で受け止めるとその人は、要するに被曝するのである。この被曝を世の中の人が体験する外爆として納得したり認めたりしてはならない。社会の日常生活の中で文明の言葉は確かに人々の生き方の中に入り込み、外爆の影響を与えていることは事実だ。 しかし人は出逢った言葉によって内曝されなければならない。シュリーマンが父親から教えられたキリスト教の真実に外爆されていても、内曝されるためにはその後の人生の中で数多くの外国語の勉強に勤しみ、トロイの遺跡を発掘する人生時間の中で間違いなく内曝されたのである。同じことはニーチェの場合においても言えるであろう。牧師の父親からの言葉によって外爆はされていたのだが、やがて哲学的な言葉により、しかも自分自身の言葉に目覚めて内曝したのである。
人は誰でも生まれてすぐ言葉によって爆発の中に生き続けるが、数多くの人間の中のごく僅かな例外の人間とならなければ、言葉が心のなかを通過すること、つまり被曝することはないのである。外爆の中で、つまり文明時間の流れの中では何事も浄化されることはないのだが、内曝を体験すると人は真実の意味で言葉を生きることが出来る。
物書きや言葉を考え、又それを行動に表して実現化する時、Transgenic wordという言葉があるが、organism(生物)を私は今考えている。オートマティズムの言葉を使って何かを表現し、考える時、かなり実際の生活の中の表現とは違うものをそこに認めなければならない。そこにmutantつまり突然変異体として言葉が出現する。
その人の心の中のリズムや彩色の僅かな変化から言葉の染色体の一部が変化し、逆転したり一部欠落したり、重複したりすることがある。この変化は天然の流れの中で行われ、自然のハーモニーとして受け止められている。此の様なミュータント(言葉の突然の変異)の中で、人は自分らしい考えを持ち、それを言葉に表現し、自分らしく立ち上がることが出来る。しかし、様々な微生物などによる環境汚染からミュータントはこれまでも人の知らぬうちに生まれてきている。言葉でさえ文明をここまで拡大した基本の形として考えられる。農業も多くの突然変異の中の一つとして考えられ、そこからも文明社会を作り上げるのに必要な多くの要素が考えられる。小麦や米やトウモロコシなどといった穀物が果たした農業の役割は、決して忘れるわけにはいかない。bio remediation(環境汚染)の繰り返しの歴史の中で人間は数多くのミュータントを産み出し、そこから文明の広がりは今日に至るまで拡大していった。
人の言葉の中のリズムや僅かな変化から言葉の染色体が少しずつ変わり、突然変異体はそこから何度も出現していたのだが、人はそれを必ずしも理解しては居なかった。この不理解はとても幸運なことでもあった。
十九世紀の産業革命から広がっていった地球上の文明の嵐は、人間を興奮させ歓ばせ心踊らせ自信を与えもしたが、一万年以上も前、穴居生活の中でおずおずと生きていた人間は、遙か中近東の方では野菜作りの農業を始め、トルコ辺りでは麦の生産という、火の発見と並べられるような発見をした。広い中国大陸の南の方、雲南辺りでは米作りの知識を身に付け、中米では芋や玉蜀黍の栽培の技術で農業は大きく発展させていた。
グローバルな見地にたって今述べた世界の三ヶ所、中近東、中国大陸、中央アメリカが現代の発展した農業の礎になったことは、今日何をやるにしても人は忘れてはならない。むしろ今の文明世界は世界三大古代農業事情を忘れているので、農業は大きな問題の過度期に来ているようだ。
穀物でも野菜でも牧畜に関してもミュータントの出現を意識し始めた現代人は、そこからこの問題の解決に向かおうとしているが、果たしてそこに道が開かれるかどうか、私達はかなり不安な気持ちで見ている他はない。そこから考えると、原発の事業も複雑で不安多い問題として我々の前に現れてくる。
何事にも、その存在の中心やそのアイテムの中央には、又底の方には、神髄というものが存在する。始めのうちはボンヤリと弱々しく渦を巻いていたものも、流れていく時間の中で徐々にその流れの勢いを増し、その中央辺りに情熱的な勢いが生まれてくる。その勢いがただならぬ勢いと化し、最初のうちの一寸ばかりの硬さから徐々に強く固まりだし、チークの様な硬い材料に変わり改められ、それは更に金属のように、遂には金剛石のように何処までも硬くなっていく。万物の骨として、髄として、更には、神髄として気髄、磁髄になっていく。要するに超神的な物事の中心として固まっていくものが出現する。人は何一つ自分の考えでそういった存在の中心を神社や教会やモスクを建てるように作っていく必要はない。
神髄とは極めて自然に、又常識的に更には非常識的に突然現れるものだ。歴史というものが長い時間の中で考えられる時、この常識と非常識という名のふし;節のような極めて固く頑固なものが存在しなければならない。この常識と非常識の狭間にこそ、「神髄や気髄」が生まれてくるのである。
他の生き物と違って人間は物を考える。考えが数多く交わったり重なったり溶け出すと、それを人間は、特に日本人は粋と呼ぶかもしれない。本当の大人の生き方や老人の気高い生き方のことを深々とした底力のある粋と呼ぶようでもある。
この事からもはっきりと解ることだが、人間個人個人も、生き方に就いても神髄という言葉でしか表現できない硬いものもある。それはその人の底力であり、江戸の人達がその昔口にしていた粋の精神、又はかぶ;傾く生き方を指しているのかもしれない。この事もまた日本人は大人の、更にはたっぷり人生を生き抜いた翁の粋だと認めるのである。
豊かな人間の一生は超神髄であり、超気髄なのであって、その硬さは別の言い方をするならば至って単純であり素朴そのものであって明解極まりない生き方なのである。
こういう人間は段々と人生の深みの中で、それまであれこれと苦労して又、人に負けじと考えてきたことに大きな矛盾を見出し、考えないことの良さを知ることになる。フランスに「考える人」という彫刻作品が生まれたが、よくよく見ればあの作品は地獄の底で何一つ考えず、恐れず、不安がらず生きる自由な人間の姿であると私は見ている。自分自身の中から紡ぎだされるすべての言葉、それらの言葉が四方に生み出す全行動が些かの誤りもなく確かに表現されているのである。
トロトロと燃える焚き火を前にしてその人間が口にする炉端の言葉は、所謂文化などではない。そこには一切の被害妄想的な言葉の匂いも、傷跡も誤魔化しの匂いも感じられない。人間最古の文明時間は壁画を描きながら、また穴居生活の中で、森の獲物や海辺の貝を食べながら、炬火の炎を見ながら正直に生きていたのが彼らなのである。現代文明の便利な時間の中で生きる人間は、その正直さが無くなっている。釈迦とキリストの間に本来生まれるはずの神髄さが、又粋なものが生まれなくなってきている。ダ・ヴィンチやダーウィンやエジソンやアインシュタイン達の信じていた物の間に、果たして正しいものが何時までも主張されていられるだろうか。
人は長い歴史時間の中で多くのことを学ぶことを身に着けたのだが、それを嫌々やっていることも事実だ。喰らい、歌い、走り、愛し、信じていくことを願いながら、その実、人はとても嫌な学びに時を費やしている。
「神」という漢字は神様のことを指しているよりは、本来「物事の髄」を表している。人間は「神」という迷信的な、又心の中の作り事としての世迷言を表すよりは、「髄」の方を多く表していることを私は疑わない。「髄」はよりその意味の性格を現しており、「玄髄」は更にはっきりとこの言葉の意味そのものとなっている。
知層に埋もれている歴史時間はそのままの言葉では豊かに展開していくことは出来ない。教科書の夫々のページのように、人は1ページ読むごとに次のページに入った瞬間に前のページのことを忘れてしまう。薄い知層の形の中に閉じ込められている人の生き方は、他の人間に与えたり移動させたりする能力はない。この移動は言葉という潮流の作り出す洪水である。人の能力を大きく伸ばすのもこの言葉の洪水の為せる技である。言葉の洪水は災害ではないが、歴史の知層を考える時、やはり一つの大災害であることは事実だ。人間の能力を大きく伸ばす力の働きは、我々にとって知力と呼んでいて、他の生き物と比較する時一段とレベルの高いものであることも我々は良く承知している。知の洪水や言葉の潮流が人を高め、救い、より大きな行動に導く。言葉の崩れた深みの泥沼と化した現代の人間時間は、ただそのままで見つめているにはとても耐えられない。人はこの泥沼の底に落ちて行くばかりで底から浮き上がってくるような人の姿も心も全く見えない。
人の生活も、人間の歴史時間も全て知層の中に隠されていて、そこから人本来の生きる力を新しい潮流として吹き出させることは至難の業なのだ。
単なる考えもその考えを時間の中に保存させるための思想もぐつぐつと煮ていけばふきこぼれないようにと蓋を取る必要がある。そこで思想が煮えたぎる鍋の中では心のリズムが全体に味を行き渡せる。じっくりと空気の調節をとりながら、うまい味わいがそこから生まれるのである。
人は過去も現在も未来に於いても不思議に認められたい自分を常に意識している存在なのだ。愛し愛されることと同様、己が認められるということは、何をおいても先に意識しているのがあらゆる時代のあらゆる意味の才能の中で生きている人によって極めて当たり前のことである。人は常に独学するのだが、その行為は自分の生き方の中の総ての点において常に何らかの承認を自分が思っているようには与えられていないので、不安がっていることから起こる考えなのである。人は常に不安を抱き、何事にも満足したいと願っているのである。この願いは結局「認められたい」又は「承認されたい」という勢いの中に閉じこめられていく。その時人は周りから教わるのではなく、自ら独学する勢いの流れの中に自分を投入するのである。
長い時間の中で煮詰まりすぎた言葉は、一度徹底的に冷まされ、全く新鮮な食材として使われ始める。古い意味も、新しく生き出すこともそこから始まる。ブレーク スルーされないと社会で通じるだけの言葉では意味が無い。言葉は確かに一度その人間の生き方の中で見つめられ、独学という学びの生き方の中で大きな意味を持つものとなるのである。言葉の境には多くの意味が含まれている。古語の形で立っているものがほとんどだと言って良い。しかしその言語の古さの意味の尖端にはごく僅か、一つ二つ新しい生きた意味が付いているものだ。本当の詩人とはどんな言葉にぶつかり言葉の流れに乗りだしたとしても、このごく僅かな一つ二つの新しい意味をとり逃すことはないのである。新しい言葉をとり逃さないその態度は、世の中の言葉から自分の言葉を捏造することと見るのは必ずしも間違いではない。本来独学そのものが何かを盗み出す態度の内容を持っているなら、正しく用いられる本人の言葉も捏造されたと言っても仕方があるまい。
本当の学問には捏造の匂いのする、ぐつぐつと煮られている鍋の中がどうしても浮かんでくるのである。
結局学問とはそういう体質を持っている。人が本物で常に天然の中で生きられるのなら、学問など一切必要ないはずだ。学問が必要であり、その為に独学という純粋な学問に精を出さなければならない人は、やはり何かに背後から押されているのだろう。君はそのことに気付いているはずだ。
汚れ腐れきっている時間の中で生き物自体が生命力を弱めている。人はこんな世の中で二人羽織でもって、心と体を巧くやりこなさなければならないようだ。現代というこの時代の中で地獄を日々体験しながらそこにはっきりと極楽や天国を見つめ、その中で生きて行く覚悟がなければならない。自分を含め、万人が敵であり、味方である今の世の中は、自分の中だけでも敵味方に分かれて、うっかりすれば自分が自らのどちらに属しているかさえ、解らなくなってしまう。人は「人たらし」であり、同時にそこから一歩も動こうとはしない「達磨大師」になってしまう。女たらしも人たらしも自由自在に出来る現代は同時にどんな形の人たらしも出来るのである。万人こぞって人の社会の中で何一つ恥じることのない詐欺師であり、しかも天才的な詐欺師なのである。
賛美歌も声明も、スイスの音学家マルタンも、ドイツのシュトックハウゼンもフランスの音楽家メシアンも、音楽の中でのアブストラクトなメロディーを残念ながら超えていくことはできない。音楽の新世界もそうだが、言葉の新世界を発見することはコロンブスがアメリカという新大陸を発見するよりも遙かに難しい。
このことを現代教育に結びつけるならば、教育というものが今日どれほど危ういところに身を置いているか、又精神のアクロバットのようにサーカスの天井の綱の上で行動しているか考えなければならない。教育が成功をおさめている人は滅多に居ない。学校の教師でも、親たちでも、子供の教育において成功している場合は数少ない。
ジャン・ジャック・ルソーのような教育論の天才は滅多に世に出ない。しかし彼は自分の子どもを次々と捨てながらその傍らで本当の教育原理を確立していった。その点、バーナード・ショーの教育観には精神のアクロバットの怖さを抱いているところがあちこちに見え隠れしているのである。人間は過去から現代に至るまで、教育に関しては野菜作りのように成功してはいない。教育者の一人として、又宗教家の一人として一時身を置いていた私も、確かに教育活動に成功していたとは思えない。ペスタロッチも吉田松陰も、この事に関しては同じ考えだったと思う。
教育論としてあらゆる人が日々使っている当たり前の言葉には、当然のことながら人を動かす熱情があると思っている。ところがそれは大きな間違いのようだ。人はよほど注意をし自分の心の紡ぎ出す勢いと自信のある言葉でないと、学ぼうとする周りの人々には所謂影響を与えることはないようだ。現代の教育は、冷たい口調で与えられる教科書の言葉の羅列であり、その言葉を話す教師も単なる力のない羅列としてそれを口にするので、聴く生徒の身体の中には凍りついた言葉としてしか伝わっていかないのである。そこには聴く者に夢を与え、心を熱くする勢いを与えるものが何一つ無いのである。
学問とは、覚えることや与えることや、生きることのリズムを身に着けさせることではなく、一種の独学として目の前の師の教えを自分自身の言葉に変えて理解するとき、達成するのである。自分自身の生き方の形を目の前の人に見せつけることであり、人々がそれを自分なりに納得して本人なりの生き方の形に変えていくとき、教育行為は成功したと言える。つまり教師から見せられた物を生徒は自分の中で独学するとき、教育は成功し、一つの目的を達成出来るのである。
先程も述べたカールハインツ・シュトックハウゼンもそれまで単なる「ノイズ」と思っていたものも音楽の上位に置いていた最初の頃の人物だった。サウンドアウトの開祖としてその名は知られている。
人の言葉は誰の場合でも心から紡がれた勢いが確かならば、もう一つのサウンドに包まれた芸術哲学と見倣してもよいだろう。二十世紀の最後に現れた、一見、彫刻されたサウンドならば、私の文章などは何処までも丹念に彫刻された言葉や文字として読めるかもしれない。
こういう一見可笑しな文章も、それを理解し自分自身の生き方の中に同調させていく人ならば、限りなく喜びを持って、又驚きと感謝を持って読むに違いない。私はそう信じている。教育論も新しい考えの中でこの考えに同調していくだろう。
モンティニューは彼の『随想録』の中で、人生に関してこの様に書いている。
「人間の運命は、我々に幸も不幸も与え様とはしない。唯その素材と種となるものを用意してくれているだけである。それをごく自然に料理し、我々の強い心で思うように自由に変えたり、用いたりする時、それに依って幸も不幸にもなって行く。素材や種子が基本的な原因であり、支配者なのだ。」
私達は、夫々に異なった人生の道を歩んでいる。顔の形が異なるように、やっている仕事が違っているように、与えられている人生の各所や置かれている場所によって、歩き方は自ずと異なってくる。それを私達は、どうしても人生の幸や不幸に結び付けて考えるが、それは先程のモンティニューの口を借りなくとも、当然間違っている。人間の根本的な存在の中心に、自然から与えられている又は神からそなわった素材としての能力があり、それを力づける力としての種子が存在する。しかも、個々の人間の生き方は全方位的なものを持っていて、それは別の見方からすれば、精神的又、肉体的な生産生活を示す、一つの確かな環境状況なのである。一人一人、微妙に異なった方向を示しているこの生活環境の状況を、私達は何らかの形で察知するだけの能力を持っていなければならない。もっと簡単に言うなら、生まれつきの自分に与えられた能力の方向性や、力の強さを知る事がとても大切なのである。「私の成功は、兎にも角にも勤勉であることに常に依存してきた。私は生涯、ずっと食事をするにも、のんびりと坐って食べたことは無かった。」と言ったのは、あの辞書の編纂者であったウエヴスターその人であった。私達は自分の能力を知り、その方向に向かっている限り、食べること一つにしても、のんびり休んで食べるようなことをしないのはウエヴスターと同じである。このことを詩人のブレイクは、「忙しい中で、常に花の回りを飛び回っている蜜蜂には、決して悲しんでいる暇が無い」と言っている。この言葉も又、自分の能力や、その方向性をはっきりと認めている人間の生き方を表しているのである。つまり、豊かな素材と間違いない種を持った人間が、一つの方向を定めたなら、其処には間違いがある筈はなく、不幸を感じる暇は絶対無いのである。幸や不幸を決めるのは、その人の方向性の問題であり、或る人にとって幸福なものも、別な人間にとっては何とも不幸なのである。前に書いたとは思うが、予言者イザヤと、エレミヤがその方向を間違っていれば、二人の間に幸福な予言者としての道は無かった筈である。フィフティはこうも言っている。
「あなたの行動的な小知恵や利口さ、人の気を逸らさぬ態度は、あなたの生き方を変えはしない。あなたの本質的な行動即ち、あなたの価値だけがそれを決めるのだ。」
私達はこの文明社会の中で、常に小知恵や小利口さを利用して上手く生きている。だがそんな所には、幸福がありはしない。不幸だけが必ずその前に顔を出してくる。小利口さではなく、その人間の存在の素材であり、種子であるもので活動する時のみ、その人の価値が表れてくる。この活動を常時働かせている為には、先程のウエヴスターが言ったように、食事さえも落着いてのんびり食べるような人生の熱意がない所には生まれないのである。この事に関してであろうか、ロシアの作家トルストイは、「人間が幸せに生きるのには、どうしても激しい働きという態度が必要である」と言っている。この言葉を、裏を返して言うならば、日々の生活を活発なものにして行くには、蜜蜂のように、又はハチドリのように、一瞬たりとも休むことなく夢見る方向に向かって飛び去る必要があるのである。短い人生は休んでいる暇のない舞台そのものだ。次から次へと様々な役者が登場し、又退場する。休むのは、最後に幕が引かれた時にすれば良い。ゆっくりと長い時間の休みが其処にある。毒盃を飲む前に、ソクラテスは、これから直ぐやって来る永遠の眠りの時間を、夏の夜の短い一時の眠りと表現した。それを忘れることなく書いたのが、彼の弟子プラトンである。『対話集』の中で私達はプラトンが記したソクラテスのこの言葉を、あれから二千数百年も過ぎた今、何となく思い起こしている。
人生は、植物もそうだが、人間においても、常に休むことなく動いている、命というムーヴメントの動きの時間なのである。素材や種子としての動きこそが、ムーヴメントそのものなのである。
人間は先ず初めに己を完全とまでは行かなくとも、ある年になったら、自分を知ることから始まる。一人の人間は、一つの大きな可能性を夫々に持っているエンジンである。夫々に異なった個性をもっているエンジンに気付き、其処に入れる燃料や、オイルに就いても、又そのエンジンを動かす方法に於いても賢くなくてはならない。その昔、聖書の中の旧約書にはイザヤという名の予言者が居たが、彼は火のような熱烈な性格を持って生まれてきており、それなりに火の予言者として我々に多くの事を教えている。一方エレミヤという予言者は、実に穏やかというよりは、優柔不断な性格であり、それ故にやがて亡びていくであろうエルサレムの町をはっきり見通し、涙を流しながらこの予言を世間に伝えた。あらゆる人間の生活は常に晴れもあれば、嵐の時もある。常に変り易い季節や天候のような時間の過ぎ行く様を、シェイクスピアは物語りよりは、言葉の達人とも言うべき、「酷い嵐の最中でも、時間は間違いなく過ぎていく。」と言っている。とすればどんな時でも、泣いて騒いだり、激情したり、喜んでばかりいても始まらない。例えば、昔の哲人達の多くは何らかの意味で所謂“犬儒派の人々”即ちこの社会では然程認められない汚い野良犬のような存在として扱われていた。その中にはソクラテスが居り、デオゲネス、日本には風外や良寛のようなこの類いの人々が居た。だが彼等は唯何もしないで社会でのほほんと生きていた所謂ヒッピーであった訳ではない。アメリカのヒッピーの中には、今日世界中の人間が、生活の中で大いに活用しているコンピュータを作り出した人も居たことを思えば、犬儒派タイプの人間も、大いに生産的に生きている事実には代わりが無いことを知る。だからニーチェは、様々な人生に必要な言葉を言っているが、次のように言っている事にも目を向けなくてはならない。「職業というものは、人間の生活の為の背骨である。」どんな人間も生き方の何処かには、ちゃんとした生活の基盤としてのバックボーンを備えているようだ。その事であろう、かつてカーライルは、「仕事を人間が持つというのは、人生の目的をしっかりと持っている人である。これを身に着けている限り、その人間は必ず限りなく働き者である事が分る。」怠けている人間で、生産的な人間は一人も居ない。例え笑い飲み食いの中で騒ぎ、色々な遊びに身をやつしていても、よくその人間の生き方を凝視してみたらよい。其処には、ヴァレリーが言っているように、「人間というものは他の人の目から最も隠さなければならないものを、周囲の者の目にどういう訳か隠しては居ないようだ。」と言っている。これでも分るように、私達が凝視する時、その人間には必ず遊びつつも何処かに生産的な一面があることに驚くのである。その良い例を私は、ヘンリー・ミラーの自叙伝とも言うべき多くの作品の中に見て取る。彼はその人生の中で、三十を越える様々な仕事に就いた事があるが、どの一つとして真面目にやってきたものは無いように見える。だが、若い後の世界的文学者ダレルや、同じくフランスの女流小説家アナイス・ニン、そしてアメリカの血みどろの批評家メンケン、更にはノーマン・メーラーなどにあれほどの影響を与えた事実を思えば、ミラー自身実に生産的に生きた人間の中の一人である事が分る。子供達と遊び、日々村から町を廻り、乞食生活をして暮らした良寛にしても、此処で一々書きはしないが、何と多くの生産的な一面を持っていたか、単なる今の社会のサラリーマンなどはこれを知って恥じなくてはなるまい。私達はもう一度、理屈ばかり言って、行動の少ない、つまり生産性を疎かにしている人間の事実を思い見ながら、アメリカの実業家、カーネギーの次の言葉に目を通したい。「人生はそう何時までも学校の子供の討論会ではあるまい。」私たちはカーネギーのこの言葉で殴られるような一撃を受けはしまいか。つまり、先生達に誉められ、優等生になって喜ぶ生徒が、その事によってやがて社会に出てどれだけの事が出来るか、よく考えてみよう。エジソンにしても、アインシュタインにしても、彼等は何という愚かそのものの少年時代を過ごしてきたことか。小利口な議論好きであったり、親達や、先生達や、社会の大人達を喜ばせる前に、自分がどれ位自分自身であるかその事に心を向けたいものだ。昼行灯と馬鹿にされた良寛も、学校一の馬鹿者と扱われたアインシュタインも、小学校さえまともに卒業できなかったエジソンも、見事に生産的に生きられる人物となった。人間は、この社会で馬鹿だといわれる時期があったとしてもそれを怖れるな。嵐の中でも、ちゃんと時間というものは前進しているのだから。唯嵐の中でそれに耐えられる人間で居なくてはならない。
肥後の侍達に就いて此処に書く前に、ロシア系ユダヤ人であるシェストフの『哲学前夜』の序文の中の出だしの文章を引用しておこう。
「魚というものは、より深い所を求めて泳ぎ、人間は、より良い所を求め続ける。しかし、人間は時によっては、その場所がより良いところではなくても、例え悪い所であっても、極めて悪質な場所であることが分っていても、敢えて其処に向かって進んでいく場合がある。」
日本の本当の侍と言うものは、このシェストフの書いているように、敢えて自ら選んでより難しいもの、より苦しいものに自分の生き方を向けていったものである。それは何処かあらゆる時代の一角に見える、宗教人や芸術家の生き方に良く似てはいまいか。此処で取り上げる、阿部弥一右衛門の一族も又同じであった。
細川忠利に仕えていた優秀な武士の一人に、阿部弥一右衛門が居た。忠利が生前中何度も殿の死に従って殉死したいと弥一右衛門は願い出ていたが、忠利はそれを許さなかった。自分の後を継ぐ光尚に仕えて奉仕してくれればと願っていたのである。だが弥一右衛門は剛毅な男であり、殿のこの言葉に反し、自分がどのように勇ましく死ねるか見ていて欲しいと息子達に言った。彼の長男は権兵衛といい、次男は弥五兵衛といい、三男は一太夫、四男は五太夫、五男を七之丞といった。これらの息子達の中で五男は、まだ前髪の取れない子供であったが、長男以下の息子たちは一様に父親似の勇のものであり、島原の乱の時などは殿の覚えも目出度く、中には新地を何百石も与えられているものも居た。父、弥一右衛門はこれらの子供達を前にして、些かの戸惑いもなく、堂々と自分の首筋を左から右へ刺し通し腹を切って死んだ。
肥後の殿である忠利の一周忌がやって来た。忠利の位牌と、その傍らに並んでいた十八人の殉死した家来達の位牌の前で、その遺族や上級武士達から下級武士に至るまで次々と焼香していった。弥一右衛門の長男権兵衛は焼香の後数歩下がると、自分の脇差に付いていた小柄(こづか)を抜き出し髻を切り捨て、位牌の前に供えた。細川家の後を継いだたった二十四歳の若者、光尚は権兵衛のこの態度に、情を抑え欲を制する心に不足していた。光尚は、阿部弥一右衛門の次男である弥五兵衛と阿部一族の者に閉門を申し付けた。それだけに止まらず、光尚は阿部権兵衛を捕まえ、先祖の位牌の前で不敬を働いたという理由で殺した。その殺し方が何とも武士にとっては恥ずかしいものであった。権兵衛は切腹でも他のどのような誇り高い死に方でもなく、侍としては恥ずかしい形で処刑されて逝った。阿部一族は権兵衛の屋敷のあった山崎の地に立て篭もった。この辺りのことを、鴎外はこのように描写している。
「阿部一族は追手の向かう日をその前日に聞き知って、先ず邸内をくまなく掃除し、見苦しいものは悉く焼き捨てた。それから老若打ち揃って酒宴をした。それから老人や女は自害し、幼い者は夫々に刺し殺された。それから庭に大きな穴を掘って死骸を埋めた。後に残ったのは、屈強の若者ばかりである。弥五兵衛、一太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子襖を取り払った広間に家来を集めて、鉦、太鼓を鳴らせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。此れは老人や妻子を弔うためだといったが、実は下人どもに臆病の念を起させぬ用心であった。」
このような一族郎党の死に方は外国では滅多に見られない。主君に従って死ぬ場合もあるし、一族の止むに止まれぬ誇りを保つ為に、侍の一族のある者達は外国の人達には考えられないこのような死に方をしたのである。
弥一右衛門や彼の長男である権兵衛の死の後、細川藩に弓を引くような態度をとった弥五兵衛の切腹を始め、一太夫、五太夫、七之丞達は攻めてくる敵と戦い、一様に皆酷い手傷を負い、此れに加えて阿部一族の家来の多くも力一杯戦い、悉く討ち死にした。
鴎外は若い頃から和漢の古典に通じており、仏典や西洋文学に深い関心を寄せていた。『森鴎外の文学』という評論集の中で、木下杢太郎はこうも書いている。
「鴎外の公的生活と日常生活とには武士道的な処が甚だ多かった。それと、少壮時より以来、その心の暗流を為していた所の“美と自由と“の欣求との間に鴎外はどういう解決をつけたか。我々の切に聴かんと欲するのはこの辺の消息であるが、鴎外はこの疑問には答えてはくれない。」
いずれにしても、武士道が華やかだった頃の、ある単純さと物悲しい生き方が後の時代の我々に残している人生美学は、鴎外ならずとも、現代の我々の心にある種の憧れと夢を与えている。日本的社会の中に示されている、あの浮き草に似た思いは、どうしてもこの島国の人間の心から離れないのである。鴎外が書いた大正元年の『興津弥五右衛門の遺書』を初め、十幾つかの時代的な内容を扱った作品の中で、『阿部一族』やその他の作品は、悉く江戸時代の一つの人間像を形成するのに力を発揮したが、もう一つの作品『渋江抽斎』という作品に纏って一つの鴎外の表現になった。又鴎外は大正八年の頃『心の花』の中で「歴史其の侭と歴史離れ」という原稿用紙五枚ほどの評論文を書いている。その中で、彼の友人達は、他の人たちが「情」を持って作品を書くが、鴎外は「智」でもって書いていると批評した。鴎外自身も歴史の中の、自然に帰ることは嫌っていたし、同時に歴史に其の侭縛られている自分を解放し様としていた。肥後の武士達の異常な死に様には文明から生まれた自然を嫌って飛び出した彼の文章が、我々には良く分る。
肥後の細川藩の近習の一人に長十郎という男が居た。若いこともあって、これまでに然程目立つような働きもなく、細川忠利の傍らで仕えていた。悪いことにこの長十郎は、無類の酒好きであった。一旦酒が入ると、若いにもかかわらず、人が変ったようになった。だが忠利は彼の無礼を然程咎めることもなく、あのように長十郎が無礼をはたらくのも、それは酒がする業であって、ほっておけと言って、唯笑っているだけであった。酔いが覚めてから、長十郎は毎回その無礼な態度に気付き、それを許していた殿様に感謝の心を持っていた。何時かはこれらの過ちを償わなければならないとも思っていた。忠利が、病に臥せるようになってから、長十郎は、万が一殿様が死んでしまうようなことになれば、当然殉死の道を選ばねばならないと心に決めていた。やがて殿が死んだ。忠利の死から、一ヶ月も過ぎた四月の十七日の朝、長十郎は何時もと違って紋服を改め、母の前に坐ると、初めて殉死を心に決めていることを説明し、暇乞いの言葉を述べた。彼の母親は、長十郎のそのことばに驚く様子を見せることも無かった。此れまでの一ヶ月間口にこそ出しはしなかったが、息子の心はよく知っていたようである。息子の何時もと違った出で立ちを見て、今日こそ腹を切って、殿の後を追う息子が分っていた。それだけではない、長十郎の若い妻も、母親と同じように、はっきりと夫が死ぬ気持で居ることを分っていた。彼女は奇麗に髪を梳かしなおすと、何時ものように普段着のままでいた。母も、嫁も、それでも態度はかなり改まっており、誰が見ても、真剣な気持で居る事が良く分った。部屋住みの弟左平次を呼び、一家四人で、長十郎の好きな酒を酌み交わした。母は何時もより、酒を息子に余計に飲ませた。それもまたせめてもの母心であったのであろう。こんな母の心を知ってか知らずか、長十郎は心地よげに母の注いだ酒を飲んだ。かなり酔った彼は少しご免をこうむって一休みさせてもらおうと別室に入った。鴎外はこの辺の事情をこのように書いている。
「直ぐに部屋の真ん中に転がって、鼾をかき出した。女房が後からそっと入って、枕を出して当てさせたとき、長十郎は、“ううん”と唸って寝返りをしただけで、又鼾をかきつづけている。」
忽ち朝の時間は過ぎ、昼になった。其処に介錯を頼んでいた友人の関小平次が現れた。熟睡していた長十郎を起したのは、女房であった。“大層良くお休みになりました。お袋様が、余り遅くなりはせぬかとおっしゃりますから御起こし申しました。それに関様がおいでになりました。”それから長十郎は大分気分もよくなったと見えて、茶漬けを食べ始めた。武士というものは、いざという戦いのことを考えて、決して、常々飽食はしないものだ。一旦斬り合いにでもなれば飽食した身体は、敵に遅れをとるばかりで、侍として良いことはありはしないと知っていたのである。だが一方に於いて、空腹ではいざという時に充分よい働きも出来ない事も分っていた。鴎外は長十郎の四人家族の、その日の様子を半ば明治には既に失われていた憧れ一杯の江戸時代の家族の在り方として、こう書いている。
「昼になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。それは形ばかりではあるが、一家四人の者が普段のように、午後の食事をした。」
何と悲しみ多く、日本人の未だヨーロッパの文化に触れていない頃の一家の姿であろう。これから死んだ殿の為に後を追って死のうとしている一人の男の為に、母も、嫁も、弟もヨーロッパの人々には理解することはなかったろうが、涙一つ流さず、何時もの態度で箸を運ぶ春の一日を、しかも其処には先程から来て待っている介錯人の友も顔色一つ変えずに居た。鴎外はこの事に関して、ドイツ時代のヨーロッパ的な考えを脇に置き、この武士の一族のことを思い涙を流したのも当然のことであった。
病の忠利の足を、布団の中で揉んでいた頃の長十郎は、此れまで様々に酒の上で無礼をはたらいても何時も大目に見てくれた事に関し、いざという時は、殉死をと願いを出して居たが、殿はなかなかそれを許さず、息子の光尚の為に働いてくれるようにと言われていた。
やがて食事も終わると、長十郎は、菩提寺の東光院に向かって介錯人の関と一緒に歩いていった。家族はその彼を心穏やかに見送った。このような一族の在り方は他の国の人々には考えられないことである。それ故に私達は、世界のこういった国々の人々と変わりなくなってしまった今、一層この日本的なものへの郷愁を感ずるのも、当り前である。
その昔、ギリシャ人達は、「自然を余り見過ぎるな。自然は常に宿命的でしかないからだ。」と言っていた。これはイオニズム時代の神託であったようだ。つまり人間を抑え込む様々な圧力を受けすぎると、人間は道徳的なけち臭い人間になり、其処には倫理の大きな力が活動しなくなることも事実である。鴎外や漱石達は、それでもヨーロッパで身に着けた多くの倫理的な自由さを生活の中で生かしながら、どうしても彼らの少し前まで存在していたあの、武士道と言う自然の中から生まれた道徳を、心の隅の何処かで、憧れていた。
肥後の殿様である細川忠利が死んだ時、家来達の多くが無理矢理信じた二羽の鷹の殉死の姿に心を熱くしたのは、下級武士の津崎五助であった。侍には違いなかったが、何とも貰う石高は低く、たった二人扶持六石の軽輩であった。彼の仕事は常に忠利の狩に連れて行く犬の世話をすることであった。忠利も鷹狩の際この足軽、五助にとても気を許していた。高級武士達は高禄を貰っているが、五助のような禄高の低い者達は、何も殉死するほどのことはないといっていた。だが、五助本人にしては、そんな言葉には耳も貸さず、殿の死んだ日から、一ヶ月と十日ほど経った或る日、何時も鷹狩に連れて行った犬を連れて、高琳寺に出かけて行った。家を出る時、彼の心を良く知っていた彼の妻は涙を流しながら、今生の別れとばかり、何時もと違って門口まで見送った。その時の彼女の夫への言葉を、実に簡単に、しかし意味深い内容で、鴎外はこのように書いている。
「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」
五助は、軽輩の身であるとはいえ、殿が死ぬ時は自分の一生は終わったものとはっきり意識していた。鴎外はこんな武士の馬鹿丸出しの熱い心の在り方に、深い西洋の考えに精神を閉ざされてはいたが、決して忘れることの出来ない憧れを持っていた。五助の家では、往生院を菩提寺として持っていたが、ここで死ぬことは余りにも由緒深い場所であるという理由で、足軽の彼はこれを避け、わざわざ先程も書いたあの高琳寺を死に場所に選んだのである。犬を連れた五助がこの寺に着く前既に、彼が頼んでおいた上役の武士、松野縫殿助が其処に来て待っていた。五助の介錯に当たろうとしていたのである。此処から先を、鴎外の言葉そのもので説明しておこう。
「五助は肩にかけた浅葱の嚢を卸してその中から飯行李を出した。蓋を開けると握り飯が二つ入っている。それを犬の前に置いた。犬は直ぐに食おうともせず、尾を振って五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように、犬に言った。“おぬしは畜生だから、知らずにおるかも知らぬが、お主の頭をさすって下さったことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それで御恩になっていなされたお歴々は皆今日腹を切ってお供をなさる。おのれは下司ではあるが、御扶持を頂いて繋いだ命はお歴々と変ったことはない。殿様に可愛がって戴いた有り難さも同じ事じゃ。それでおのれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おのれが死んでしまうたら、おぬしは今から野良犬になるのじゃ。おのれはそれが可哀相でならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしも己と一緒に死のうとは思わんかい。若し野良犬になっても生きたいと思うなら、この握り飯を喰ってくれい。死にたいと思うなら、喰うなよ。”
心を熱くして犬の顔をじっと見ていた五助の前で、この犬は彼の顔を覗き込むばかりで、握り飯を喰う様子はなかった。五助にははっきりと犬の気持が分ったらしい。犬は一声吠えてから、力一杯五助に分るように尾を振った。
“わかった。そんなら不憫じゃが死んでくれい”
と五助は言うと、犬を胸元に抱きかかえ、持っていた脇差を抜き、一刀の下に、この犬を斬り殺した。犬の屍骸をそっと傍らに置いた彼は、懐から、やおら一枚の書き物を取り出すと、それを自分の前に広げ、風に飛ばされぬように、紙の回りに小石を幾つか並べた。何処かの位の高い侍の屋敷で見た通りに半紙を横二つに折り曲げ、其処に辞世の歌を、軽輩の身でありながら次のように書いた。
“家老衆は とまれとまれと 仰せあれど とめてとまらぬ 此の五助かな”
この歌には作者の名が付いてはいなかった。恐らくは、五助と歌の中に入っているので、敢えて名を残さなくても、分ると思ったに違いない。そして傍らに居た上級武士に向かって、彼は松野様よろしくお願いしますと頭を下げ、身を崩すことなく正座し、もろ肌を脱ぐと、今犬の血のべっとりとついた脇差を逆手に握って一声高く声を上げた。何ら上級武士達と変わりない堂々たる態度で、腹を十文字に切って果てたのである。松野は背後から力一杯五助の首を刎ねた。彼の妻は後になって五人扶持を戴き、別に家屋敷を藩から貰い、長生きして、忠利の三十三回忌頃までは存命して居たと言われている。一人居た息子は出家していたので、五助の親戚の者が、二代目の五助になり、代々細川家に仕えていたという。」
大分前の事だが、この肥後の殿様の子孫である細川という名の政治家が総理大臣になった事がある。根がそれほど政治に向いていなかったと見え、内閣を放棄して短い政治生命を捨てた。
江戸期の昔、この細川家に、忠利という名の殿様が居た。彼は五十六歳で亡くなった。彼の死んだ後、多くの家来達は殿様と一緒に死ぬ事を名誉と考え、その事を密かに願った。だが、忠利の死んだ後事実上殉死を遂げた者は十八人であったと、物の本に記されている。このことを現代の私達が単なる歴史上の事件として扱うだけではなく、武士道の厳しい形と見、命さえ自分の信じているものの為には投げ捨てるこのファナステックな態度に、郷愁さえ感じる事がある。森鴎外も医者であり、高い位の軍人でもありながら、しかもヨーロッパ留学の経験も身に着いていながら、江戸時代の日本人のああ言った武士道の形に大いに惹かれる一面もあったようだ。ヨーロッパの知識を身に着けていた彼は、同時に和漢の文学にもひとかたならず心を開いていた。鴎外の多くの作品の中で、『阿部一族』は彼の他の時代小説と併せて、江戸期への熱い思いを彼の心にときめかせたのである。其処には例の五十四万石の肥後の国の大名、細川忠利の死に殉じていった人々の姿が実に鮮烈に描かれている。明治以後は、殆ど見られなくなった一族郎党の固い繋がりがよく書かれている。同じ事が現代のアメリカ合衆国においてもよく聞かれる話だ。アメリカの家庭から見れば、メキシコやスペイン等の家庭がしっかり持っている一族の激しい団結に、計り知れない羨望の心があるようである。武家社会のどこか厳しすぎる道徳に対して、批判の心も有りながら、其処に見られる乱れぬ一族の、一方に向いた生き方に、むしろ鴎外は涙を流し、昔に向けられた憧れの心をもう一度噛みしめたのである。鴎外の六十年に亘る軍医としての生活から離れたとき、其処には、権威に向かっての反抗の心と同時に諦めの哲学が含まれていた。そんな所から或る人は、鴎外の作家としての生活を、虚無からの脱出とさえ呼んでいた。『阿部一族』の中に書かれている三つの事件のうち、その初めの二羽の鷹に関する短いエピソードは、鴎外が書いたもう一つの作品『境事件』と同様、半分自分の憧れの中で生まれたフィクションとして取り扱っている。細川忠利が死んだのは三月十七日のことであったが、その後間もなく忠利が可愛がっていた二羽の鷹が姿を消した。彼の埋められたお寺の境内の杉の木立の中に、円形の形をした石造りの井戸があった。彼の家来達が見ている前で、空から輪を描いて降りてきた二羽の鷹が居た。二羽は尾と嘴の先を合わせるようにして、桜の木の下にあった井戸に飛び込んだ。侍達が井戸の傍にやってきて、井戸に手をかけ覗いて見ると、…………此処から先は鴎外の口から直接話させよう。
「その時鷹は水面深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もう元の通りに平らになっていた。」
井戸の淵にやって来た侍達とは、この鷹と一緒に鷹狩の時、忠利に仕えていた二人の鷹匠達であった。二人の武士は井戸の底深くに沈んでいった二羽の鷹に関して、それらが間違いなく、忠利が可愛がっていた「有明」と「明石」という名の優秀な二羽の鷹であることに気付いた。彼らは、鳥でさえ殿に愛されていれば、殿の死に喜んで殉死していくものだと驚いた。この話は、今日考えてみれば、人間の側の作り話しである事はよく分る。しかしあの時代殿様の死の後を殉死するのは、家来の義務であるというか、誇り高い当然の行為だと思っても仕方が無い。江戸期が終わり、明治に入り侍の時代は終わっても、鴎外のように西洋の医学を学んで、その生き方や風習の中に身を置く時期があったにしても、やはり彼の精神の内側に息衝いていたのは、かつての武士の魂であった。とうに現代人の一面を具えながら、彼の思いの中には、恰も亀山の二宮忠八が空を飛ぶことを夢見たように、華やかな武士道の姿に限りない憧れを持っていた。そんな鴎外は、あの『境事件』を起したのは、土佐藩士達の方であって、フランス兵の方ではなかったことを知っていても、敢えてこの事件の引き金となったのが、フランス側にあるとして切腹させられた土佐藩士達に深い思いを抱いてこの作品を書いたように、忠利に愛されたこれらの二羽の鷹に深い憐憫の目を向けたのは当然のことであった。
大分前の事だが、この肥後の殿様の子孫である細川という名の政治家が総理大臣になった事がある。根がそれほど政治に向いていなかったと見え、内閣を放棄して短い政治生命を捨てた。
江戸期の昔、この細川家に、忠利という名の殿様が居た。彼は五十六歳で亡くなった。彼の死んだ後、多くの家来達は殿様と一緒に死ぬ事を名誉と考え、その事を密かに願った。だが、忠利の死んだ後事実上殉死を遂げた者は十八人であったと、物の本に記されている。このことを現代の私達が単なる歴史上の事件として扱うだけではなく、武士道の厳しい形と見、命さえ自分の信じているものの為には投げ捨てるこのファナステックな態度に、郷愁さえ感じる事がある。森鴎外も医者であり、高い位の軍人でもありながら、しかもヨーロッパ留学の経験も身に着いていながら、江戸時代の日本人のああ言った武士道の形に大いに惹かれる一面もあったようだ。ヨーロッパの知識を身に着けていた彼は、同時に和漢の文学にもひとかたならず心を開いていた。鴎外の多くの作品の中で、『阿部一族』は彼の他の時代小説と併せて、江戸期への熱い思いを彼の心にときめかせたのである。其処には例の五十四万石の肥後の国の大名、細川忠利の死に殉じていった人々の姿が実に鮮烈に描かれている。明治以後は、殆ど見られなくなった一族郎党の固い繋がりがよく書かれている。同じ事が現代のアメリカ合衆国においてもよく聞かれる話だ。アメリカの家庭から見れば、メキシコやスペイン等の家庭がしっかり持っている一族の激しい団結に、計り知れない羨望の心があるようである。武家社会のどこか厳しすぎる道徳に対して、批判の心も有りながら、其処に見られる乱れぬ一族の、一方に向いた生き方に、むしろ鴎外は涙を流し、昔に向けられた憧れの心をもう一度噛みしめたのである。鴎外の六十年に亘る軍医としての生活から離れたとき、其処には、権威に向かっての反抗の心と同時に諦めの哲学が含まれていた。そんな所から或る人は、鴎外の作家としての生活を、虚無からの脱出とさえ呼んでいた。『阿部一族』の中に書かれている三つの事件のうち、その初めの二羽の鷹に関する短いエピソードは、鴎外が書いたもう一つの作品『境事件』と同様、半分自分の憧れの中で生まれたフィクションとして取り扱っている。細川忠利が死んだのは三月十七日のことであったが、その後間もなく忠利が可愛がっていた二羽の鷹が姿を消した。彼の埋められたお寺の境内の杉の木立の中に、円形の形をした石造りの井戸があった。彼の家来達が見ている前で、空から輪を描いて降りてきた二羽の鷹が居た。二羽は尾と嘴の先を合わせるようにして、桜の木の下にあった井戸に飛び込んだ。侍達が井戸の傍にやってきて、井戸に手をかけ覗いて見ると、…………此処から先は鴎外の口から直接話させよう。
「その時鷹は水面深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もう元の通りに平らになっていた。」
井戸の淵にやって来た侍達とは、この鷹と一緒に鷹狩の時、忠利に仕えていた二人の鷹匠達であった。二人の武士は井戸の底深くに沈んでいった二羽の鷹に関して、それらが間違いなく、忠利が可愛がっていた「有明」と「明石」という名の優秀な二羽の鷹であることに気付いた。彼らは、鳥でさえ殿に愛されていれば、殿の死に喜んで殉死していくものだと驚いた。この話は、今日考えてみれば、人間の側の作り話しである事はよく分る。しかしあの時代殿様の死の後を殉死するのは、家来の義務であるというか、誇り高い当然の行為だと思っても仕方が無い。江戸期が終わり、明治に入り侍の時代は終わっても、鴎外のように西洋の医学を学んで、その生き方や風習の中に身を置く時期があったにしても、やはり彼の精神の内側に息衝いていたのは、かつての武士の魂であった。とうに現代人の一面を具えながら、彼の思いの中には、恰も亀山の二宮忠八が空を飛ぶことを夢見たように、華やかな武士道の姿に限りない憧れを持っていた。そんな鴎外は、あの『境事件』を起したのは、土佐藩士達の方であって、フランス兵の方ではなかったことを知っていても、敢えてこの事件の引き金となったのが、フランス側にあるとして切腹させられた土佐藩士達に深い思いを抱いてこの作品を書いたように、忠利に愛されたこれらの二羽の鷹に深い憐憫の目を向けたのは当然のことであった。
「僕の書いた文章は、例え、僕が生まれなかったにしても、誰かがきっと書いたに違いない。従って僕自身の作品よりも、むしろ一時代の土の上に生えた何本かの草の一本である。」
自分の文章に対して、これくらい無造作な気持で居られるなら、其処には芭蕉に就いて、芥川竜之介が、『芭蕉雑記』の中で言っている次の言葉の意味が良く分る。
「芭蕉は一冊の書も著した事は無い。所謂芭蕉の七部集なるものも、悉く門人の著した物である。これは芭蕉自身の言葉に依れば、名聞を好まなかったかららしい。」
この作品の少し後の方で、この様にも書いている。
「寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心ではなかったようである。芭蕉もやはり、木の葉のように、一千余句の俳諧は流転に任せたのではなかったであろうか? 少なくとも、芭蕉の心の奥には何時もそういう心持が潜んでいたのではなかったろうか? 僕は芭蕉に著書の無かったのも、当然の事と思っている。その上、宗匠の生涯には印税の必要も無かったではないか?」
このように、日本の文学の一つの特徴を批評しながら、この文章の初めに書いた竜之介のパラグラフは、『続文芸的な、余りにも文芸的な』の中の「時代」という章の中の一節である。竜之介の文学的態度の中には、常に、「ぼんやりとした不安」といったものが付き纏っていた。臼井吉見は「芥川の自殺は、果たして、“過去の文化の重荷”に耐えかねてであろうか、彼の拠って以って立つべき文化の空虚そのものの為ではなかったろうか。あらゆるオーソリティを軽蔑することは知ったが、自分のオーソリティは遂に見出せなかった為ではなかろうか。」と書いている。竜之介の自殺は、この時代の日本文学そのものの死を意味していたようだ。このことを臼井は、志賀直哉の書いた言葉から引用して、「兎に角私が会った範囲では、芥川君は終始自分の芸術に疑いを持っていた。」という言葉を書いている。明治から昭和の初めにかけての日本文学の中には、確かに自分自身の芸術を信じきれない悲しさも付き纏っていたようだ。『西方の人』という作品の中で竜之介は、このように、「聖霊の子供」の章の出だしで書いている。
「クリストは、古代のジャーナリストになった。同時に又古代のボヘミアンになった。彼の天才は飛躍を続け、彼の生活は一時代の社会的約束を踏み躙った。」
この、ジャーナリストになり、ボヘミアンになったのは、キリストであり同時に、竜之介そのものであった。彼は昭和二年七月二十四日の未明、東京、田端の自宅で薬を飲み、自殺をしたが、その少し前に、遺書の形で書き遺された久米正雄に宛てた『ある阿呆の一生』の中で、友人久米に向かって「最後に、僕のこの原稿を、特に君に託するのは、君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人という僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれたまえ。」と書いていた。この遺書ともいうべき『ある阿呆の一生』の最終部分で、彼はモンテニューの言葉に寄り添って書いた文章で終わっている。「自殺に対するモンテニューの弁護は、幾多の真理を含んでいる。自殺しない者はしないのではない。自殺することが出来ないのである。」この同じ作品の「死」と言う章では、「青酸加里を一瓶渡し、“これさえあればお互いに力強いでしょう”とも言ったりした。」と書いているが、事実竜之介はヴェロナールとジャールの致死量分を服用して、聖書を枕許に置いて死の床に就いた。死の少し前に竜之介が書いた、『ある旧友へ送る手記』というのがある。ほんの原稿用紙にして二、三頁分の作品である。そこで彼は「生きるために生きている我々人間の哀れさを感じた。苦しみ、自ら甘んじて、永遠の眠りに入る事が出来れば、我々自身のために、幸福で無いまでも、平和であるに違いない。」と書いている。佐藤春夫は竜之介が死んで後、一ヶ月ほど経ってから一文を認めている。
「彼は“幸福ではないまでも、平静”だといって、彼の生涯を、短い一篇のロマンスにしてしまった。それと言うのも、彼は生まれながらの東洋人であり、且つ生きて病弱の人であったからであろう。彼の気質には似合わしかったことも、彼の体質が拒んだのであろう。かつは、君の玉砕を悲しんでいる。」
宮本百合子は、『昭和の十四年間』と名付けた作品の中で、こうも言っている。
「昭和という年は、文学史の最初の頁を、芥川竜之介の自殺によって開いた。」
「自分は彼の死に哲学的なものを余り感じない。自分はむしろ、脳髄と生活力の不調和と言う点から生理的なものを感じる。“漠然とした不安”と言う言葉は、自分はそういう点から分るような気がする」
と言ったのは広津和郎であった。菊池寛も又、
「死因について我々ははっきりとしたことは分らない。結局、世間を納得させるに足るような、具体的な原因はないのだと言うのが本当だろう。芥川自身が言っているような主なる原因は、“ぼんやりした不安”であろう。」
中村武羅夫は次のように書いている。
「生き様生き様としている私のような人間には、自ら死を選んで、これを決行する人のその実感がどうしても飲み込めないのだ。」
青野季吉はこのように書いている。
「大きな社会的尺度で測ってみれば、一芥川の死は、言うまでも無く、崩壊期のブルジョアジーの一様相に過ぎない。」
自殺する前の竜之介を見ていた魯迅は、このように中国の若者達に言っている。
「もう少し中国の青年に読ませたい。」
竜之介が七月二十三日の夜遅く大量の二種類にわたる薬を飲み翌日の早朝死ぬ事を意識して枕辺に置いた聖書は、私も今もって居るバージョンの一つ、文語体の聖書であった。恒藤恭は竜之介の死をこのように表現した。
「彼は孤独を愛しながら、孤独に耐える事が出来なかった。(都会人で有り過ぎた所為かも知れない。)彼はかなり多量のセンチメンタリズムを持っていた。そしてそれを露にすることを怖れた。それは精神を経たセンチメンタリズムであった。」
ボードレールの『Le Spleen de Palis』(パリの憂鬱)は、『悪の華』よりも尚一層その言葉の世界は悪夢的であり、幻覚的であり、ボードレールの心の中の詩人の思いは、貧しい人達や、虐げられた人々に向かっての深い同情の思いで満ちている。逆に言うなら、激しい言葉で文明人間達に爆弾的な言葉を投げつけていると言っても過言ではない。ボードレールの、全く新しい言葉の手法によって「フランス的象徴主義」の詩の道筋は開拓されたが、その後を受け継いだマラルメや、ランボーや、ロートレアモンは間違いなく彼ら独特の散文詩を携えて、世界の詩人達の前に現れた。ボードレールの『悪の華』が、韻文詩の力が少しずつ枯渇した所に、『パリの憂鬱』のような散文詩の形が現れた。パリという都会に放射された人々と、彼らの生き方の様々なあり方の詩的表現の中に、私達の現代文明を否定する心に、大きな力を与えてくれている。
『パリの憂鬱』はそういう意味で、「貧民をぶち殺そう」というテーマの下に書かれた文章をエピローグの前においてこの作品を書き留めている。三好達治はこれを日本語に訳しているが、其処に書かれている言葉の一つ一つが、不思議に文明から原生のレベルにまで行こうとする人の心を揺さぶって止まない励ましの言葉で満ちている。ボードレールは、「この世の外なら、何処でも良い」と言っている。こういう言葉をタイトルにした僅か二ページほどの章の中で、こう書いている。
「この人生は、一つの病院であり、そこであらゆる病人は、何時でも自分の寝ているベッドを取り替えたいと思っている。あるものは、其処までしなくともせめて暖炉の近くの方に移りたいと思って居る。別の病人は自分の病気が治るようにと、窓辺の方に移りたがっている。常に私は自分の魂と、このことを議論しているのが、実は問題なのだ。・・私の魂よ、返事してくれ。哀れな冷え切った私の魂よ、リスボンへ行って住むのはどう思いますか?あそこは多分あったかいから!
私の心はそれに返事はしなかった。
オランダに行ったら、至福の土地に住む事が出来るであろうか!
私の心はそれに返事はしなかった。
バタビヤの方が、更にお前の気に入るだろうか? あそこでは、熱帯地方の美と融合したヨーロッパの精神が見られるだろうが。
それには一言も返事が無い。私の心は死んだのだろうか?
それでお前は、最早苦悩の中でしか、楽しみを見出せないままに鈍麻してしまったのか?もしもそうなら、いっそのこと、死の相違の国に向かって逃げ出そうか。哀れな心よ!
遂に私の心が声を出し、私の方に向かってこのように叫んだ、“何処でも良い、何処でも良い・・・・・、ただ、この世の外であるならば何処でもいい!”」
楽しみを見出せないままに鈍麻している状態とは、そのまま「文明」の姿なのである。人間は、その状態から離脱して自然の中に戻りたいのである。ボードレールは、同じ作品の中で、「酔え」という原稿用紙にして一枚ぐらいの作品を書いている。
「人間は常に酔っていなければならない。それこそが、唯一の問題だ。汝の好きなままに酔ったらよい。そして汝の好きなままに酔い痴れ、絶えず酔いの中に居たらいい!」
人間は文明の社会の中で夢見ることも空に飛ぶこともとうに忘れている。だからこの詩人は、常に何処ででも本当に夢を見て生き、書いてはならない事に酔えといっているのである。パリの家並みを見詰め、大衆の右往左往する姿に目をやり、「群集」という一生を設けている。
「群衆を楽しむことは、一つの芸術である。群集と孤独な人間は、夫々別の言葉だ。生気があって、思想豊かな詩人にまで、共に相等しく、互いに置き変えられるべき言葉である。その孤独をもって、賑やかな道筋を理解できないものは、かの東奔西走する群衆の前にあっては、彼の孤独を保っている他は仕方が無い。」
『犬と香水瓶』という『パリの憂鬱』の中の短い一篇の中で、「栓を抜いた香水瓶にその濡れた鼻先を不思議そうに犬がくっつけた。忽ち犬は驚いて後ずさりし、恰も私を非難するように吠え立てた。ああ!哀れな犬よ。もしも私がお前に糞便の包みを与えたなら、お前はそれに夢中になって鼻摺りし、恐らくは貪り食ったに違いない。」文明社会の人間達は一様に香水瓶を怖れる犬のようなものだ。糞便のような金銭や、名誉や、権力に頬ずりする悲しい存在だ。「異邦人」と言うこの『パリの憂鬱』の最初の章となっている一頁ほどの短い文章にも、現代人の悲しいボヘミアンの生き方が書かれてある。あなた方もこのボードレールの作品を、ゆっくりと読んで、大切なものを得られるならば嬉しい。
1929年、つまり私が生まれる二年前、片山敏彦は、当時としてはかなり遠くに感じられていた日本から遥か西の方、かつてのジャン・ジャック・ルソーやカルビンが暮らしていたことのあるスイスのレマン湖の畔に旅をした。彼は此処でロマン・ロランに出会った。時は夏であった。ロランと彼の妹と一緒に湖を行き交う連絡船に乗っていた。彼らが行こうとしたのは、ヴジエの港町であった。この町で起こったことを片山は自分の日記の中にこのように記している。
「西日に染まった湖の反射光が、ロマンの横顔を金の色の線ではっきりと、隈取って居た。そこでロランは口を切った。“その昔イギリス人が二人、チャールス一世によって死刑の判決を受けたが、彼らはここまで逃げ延びた。彼等二人の言葉が向こうに有る碑文に今残されている。私が『獅子座の流星群』と言う作品の最後の場面で用いているOmne solum forti patria つまり日本語で言えば、強い人間にとっては地上の何処も自分の祖国なのだ。というのがそれである。彼等二人は、あのクロムウエルの仲の良い友達だった。昔からこの国は、そういった形の人々がどうした訳か、集まってきた所だ。故国が狭すぎる人々は、どうしても、自由な住処を求めてくることになるのだ。”私はここまでやってきて、『獅子座の流星群』の雰囲気を一層正しく理解できるように思ったのである。ベンチから立ち上がると、ペルズの塔の方に歩いていった。ペルズの塔の傍らを横切ると、其処に“ルソーの(より良い半身)のワランス夫人は昔此処に住んでいたのだ。”と言いながらロランは立ち止まって、生垣の中の庭をそっと覗き込んだ。庭の草木の茂った緑と古い灰色の石の壁との間に、バラの花の輝いているのが見えた。」
このことを片山はあの忌まわしい戦争が終わった頃まで決して忘れること無く覚えていた。第二次世界大戦の傷跡が残っている貧しい日本で、片山は戦前のヨーロッパ旅行を思い出し、このロランが書いた『獅子座の流星群』というフランス革命の戯曲を翻訳して世に出した。この『獅子座の流星群』の初演は、ウィーンのヴルク劇場であった。この作品は終曲であって、この話しは歴史上、凡そ二十三年程前に遡る物語として序曲、『花の復活祭』というのがやはりロランによって作られていた。この二十三年の間に、フランス社会は、あらゆる意味に於いて革命の嵐を受け、多くの国家的な体験をしている。『花の復活祭』の中でジャン・ジャック・ルソーは、既に六十二歳の哲学者の老人として舞台の上に現れ、この老人の手を引いているのは未だ十歳の、『獅子座の流星群』の中に出てくるダヴァロン伯爵という名の亡命者であったが、『獅子座の流星群』の中では、三十三歳の働き盛りの貴族となっている。この『獅子座の流星群』は原書ではフランス語で書かれているが、これを半世紀ほど前、片山は和訳したのである。そして日本で出版されたが、それは見事に薄っぺらな新聞紙のような紙に印刷され、それに付いてきたロランの全集月報は更に貧弱な紙に印刷されたみすぼらしい活版ずりであった。其処に八十年の生涯を生きたロランの言葉を片山はこのように引用している。
「万人の心に語りかけるあるものがあった。」
片山はロランを、その時代の確かな精神の先覚者として認めていたようだ。ロランは特にインドの先駆者達の言葉に酔っていたようだ。
「人類の思想の母としてのインドに対する、本能的な愛と、熱意が、ヴィヴェカナンダやラマクリシュナなどの不滅な人格に対する系統となって現れ、しかも、タゴールやガンジーの代表するインド精神の中に、現代世界の最も高貴な魂の開花をロマンは見たのである。」
と片山は書いても居る。恰もその昔の孟子の母のように、ロランの母はまだ小さいロランの為に、フランス中部の町、クラムシーを後にして一家を挙げパリに移り住み、其処で高い教育を受けさせた。こんなロマンは当然豊かな教育の結果として、伝記作品としては、『ヴェートーベンの生涯』等を書き、哲学論文としては、『エンペドクレース』等を書き、演劇の形式としては、あの大作、『ジャン・クリストフ』等を世に出している。ロランの思想や、精神及び人生行動の全域は、フランス合理主義精神に基く激しい自然の人間観に溢れ、人種や国境を越えて人類同士、そして同朋同士の愛の中に生まれる普遍的な哲学、そして原生宗教的なレベルに自分の言葉を置いていた。彼の宗教性も、芸術性も、其処には人間がどのようにして生きなくてはならないかという、問題の探求の方向に何時も向けられていた。エマスンが、「全世界は私にとって、”神の研究室だ”」といったが、正しくロラにとっても、この世界と純粋な時間の流れは、全て神を探る為の研究室でもあったようだ。エマスンは「些細なことを軽蔑し、より高い目的を掲げよ。恐ろしくて出来ないようなことを敢えて為せ。崇高な人格は、必ず崇高な動機からしか生まれない。」と言っているが、このことはロランにおいても全く同じだった。新しい世紀に入った今から見ると、先世紀の終りになるが、私達は獅子座の方向から飛んでくる流星群をはっきりと見た。人類も確かに、何か解決しなければならない方向に心の目を向け始めているのだ。
中山道をずっと上り、京都に近いところに木曽街道がある。今日に伝えられている、天保八年に出た渓斎英泉と安藤広重が協力して描いた浮世絵の一種、『木曽街道六十九次』と、安政三年に上梓された歌川国芳の挿絵を使った仮名垣魯文の旅行戯作弄文、『木曽開道旅寝廼手枕』と言う二つの書物は、夫々あの時代の観光書であり、エスノロジカルな地理の参考書であり、同時に男女の間の極めて充実した時代感覚の説明書であった。渓斎英泉も安藤広重も夫々木曽の山深い街道に遊び、当時の風物を巧みに吸収し、特に広重の大胆な、遠近画法を駆使した風景画の中に私達は、あの時代の創造的な人間生活の展開を見せてもらうことになる。一方歌川邦芳も、仮名垣魯文も、先の二人とは違って、一度も木曽街道に行ったことはなかった。彼らはその豊かな文学の才と、絵画の深い想像力を駆使した表現力によって、木曽の風景は見事に当時の姿を表している。今日、木曽の奈良井宿や妻籠等は近代の形を解体修理して、江戸期の面影を再度表し、当時の飯盛り女達が右往左往している宿場の姿になった。一度は文明開化の時間の波の中で、街道の淵に立てられた電柱も、その後心ある現地の人々の手によって全て、通りや街並みの裏側に移転された。民謡にも歌われている木曽川は、さすが当時の水量の多い姿がなく、ダムや様々な工事の後に、巨大な石の流れている浅瀬に変わり果てている。最近私は友人を訪ね、木曽路を訪れた事があるが、木曽五本と呼ばれているヒノキやサワラや、アスナロ、コウヤマキ、そしてネコズなどはそれなりに、停止木として扱われ、その昔は「木一本で首一つ飛ぶ」と言われたものだが、今日でも、木曽谷の木材は全て国有林として扱われ、木の個人所有の権利も、伐採して持ち出したり、売る権利もない。僅かに五木以外の材料で作られたもの、例えば、「お六櫛」のようなミネバリで作られたものなどは、どうにか旅人たちに売ることが出来た。この地方もこういった悲しい事情で作られていた宿場の様子は、今でもはっきりと我々の目に止まる。
諏訪湖の畔を越え、塩尻から南に下ると、其処に木曽の十一の宿場が次々と姿を表してくる。尤も、今日その様な百数十年前の面影を求めることは、先程言った奈良井宿、妻籠宿、そして何とか、馬籠宿辺りには見る事が出来るが、その他の宿場には、残念ながらその面影は無い。木曽の山や川の風景も全く変わり、辛うじて浮世絵の筆の跡にだけ、美しい日本の風景が残されている。木曽街道は、あの時代の我が国にあった五街道の中で、特に自然と厳しく対峙して、簡単に旅人を通すことはなかった。今日では街道はすっかりバイパスにとって代わられ、物流の街道は少しずつ変えられ、明治の終わり頃の中央線の連絡するに当たって、この木曽街道の一つの役目は終わったように見える。
木曽路と呼ばれているのは、贄川宿から南下し、木曽川沿いに奈良井宿、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠といった十一の宿場町を指している。こうした宿場町には三種類ほどの宿屋があった。一つは大名や武士の宿泊所としての本陣、脇本陣であり、次に旅籠、そして次にはずっと落ちる木賃宿が有った。一般庶民の泊る宿屋はどちらも粗末なもので、例えば甲州辺りの旅先で広重が書き残している日記の一節を見ると、「壁崩れ、床落ち、地虫座敷這いて、畳み有れど埃埋み、蜘蛛の巣纏い、しゃれ行灯、欠け火鉢一つ、湯呑形の茶碗のみ・・・・・」とある具合である。夫々の旅籠には四、五人、多いときには十何人かの飯盛り女と呼ばれていた売笑化した娼婦がいた。彼女達は、大体十年と決められた年季奉公で、都会の廓の遊女と同じように、肉体を売っていた。十年という期間が終わると、この地方の貧しい農家の家を思い、年季の期間を延ばし三十歳頃には殆ど、身体を使い果たして死んでいった。彼女達は五、六歳になると下女として旅籠に売られ、十四、五歳にしてお客の相手を始めたという。しかしこのように悲しい彼女達の生き方は、平安時代からの遊行婦女(うかれめ)のように、単なる性風俗の中に入っていった時代の中ではかなり当り前の女の在り方のもう一つの名称であった。こんな点を明治頃日本を見た外国人が、勘違いをして、野蛮などといったことは大いに想像が出来る。旅籠や置屋の妻や子供達さえも、かなり自由に旅の男の相手をしたという記述も、日本中あちこちに遺されている。
こういったその時代の風俗と、文明と、更には原生の生き方の間にどんな理解を私達は持ったら良いのか、これは今後の大きな研究課題であろう。いずれにしても、中山道や信濃地方は、天明時代の浅間山の噴火に依り田地田畑が失われ、農民達は困窮の極みに達した。山岳地帯の農業は破壊され、宿場の旅籠は生計の手段を失い、飯盛り女を抱え、茶屋や、料理屋も当然娼婦を置くようになったのである。こんな江戸時代の悲しい生き方の中で、誰もが苦しんでいたのである。そんな中にも、その苦しみに負けず漢学等を身に付け、時代の光となったような人物も、僅かながら居ない訳ではなかった。現代も又時代の流れは然程変わりは無い。金が無くては生きていけない大多数の人間と、ごく選ばれたエリートが居る事実は、昔と少しも変わりが無い。我々はどちら側に属するのか。
福田和彦は、『紅閨秘伝抄』の中で、次ぎのように書いている。
「人間は猿や犬のように生まれながらに、本能として性行為は出来ない。人間の性行為は、学習と他人の模倣によってでしか出来ない特異な哺乳動物的存在である。・・・人間の性愛生活は、最早十八世紀的な道徳律や、わが国に於ける儒教神学的なモラルで計ることは時代錯誤であるばかりか、人間の本性を歪曲し、その真を見失うものである。性愛を猥褻視することは人間性の尊厳に対する最大の侮辱である。又人間個人の認識を誤るものである。・・・・性的欲求は性本能の成せる動物的な所業ではない。人間の性的欲求は好色であり、想像力であり、大脳で作られる快楽的欲求である。」
このようにして、同じ霊長類であっても、人間と猿達は又、人間と他の動物達の間には、その性行為の間には越すことの出来ない隔たりがある。社会から見て、非難され、酷い誤解を受け、軽蔑されている宗教的、生活的哲学の中に、もう一度深く目をやって見なければならない。この著者などは、この問題に触れてかなり正確な判断を下しているといえよう。
「動物一般の哺乳類、例えば猿、犬、ライオン、トラ等も、メスの性器にあっては、人間女性同様にクリトリスの存在がある。しかし、いずれもその大きさは0.5ミリ前後のものであって、微少である。無論、快感美はあるものの、全く発達していない。人間女性のクリトリスも原初の時代は、こうした小さな肉芽でしかなかったが、性生活が、快楽的な志向になった時、三倍、四倍、五倍と文明の進化と共に肥大し、現代では十倍を越える人種も誕生した。又、性交体位も直立歩行になってから、文明生活の余沢と共に様々な享楽的な体位を考案し、現代に至っている。性愛生活は、最早人間の種の保存の為の生殖行為では毫もない。純粋な愛情表現、もしくは性ホルモン過剰の排泄的な行為としての快楽行為である。」
純粋な宗教行為は心の広がりの中で豊かに展開し、人間哲学は、何処までも限りない生活行為を豊かにし、性愛行為は完全に他の生物の生殖行為とは解き放されて、喜びや深い感動の時間を作り上げる。これら三つの体験こそ、即ち宗教体験、哲学体験、性愛体験を経て人間はより人間らしくなっていかれるのである。これらの三つの体験が否定されたり、その時代の道徳の下で抑えられたりすると、其処に性生活を恐れ、嫌悪し、不感症を招き、更には暴力的にさえなり、女性の場合は性的ヒステリーとなり、恐怖症のトロマティズム、即ち精神的外傷を身に負う事になる。福田和彦は更にこの同じ本に「婚礼秘事袋の伝達」という章の中でこの様に書いている。
「性的欲求は性本能の成せる、動物的な所業ではない。人間の性的欲求は好色であり、想像力であり、大脳で作られる快楽的欲求である。猥褻なことを交わし日常的なモラルから解放されなければならない。男女共に、四文字を使うことも大切で、これは精神的な催淫剤、媚薬となる。四文字は互いに欲望を煽りあげる熱風となり、呪文と化する。それは耳のエロテズムである。」
日本で最も初めに性愛学といわれたようなものが世に現れたのは、相当古い話で、恐らくは平安時代中頃であろうと言われている。永観二年、凡そ十世紀の終わりごろ、丹波康頼という鍼博士が中国の『医心方』をじっくりと読み解釈し、その中から日本人に分る部分を抜き出し、これを「房内編」として世に送った。これがわが国の性愛学に関する嚆矢ではなかろうか。中国の後漢時代に作り上げられた例の『医心方』は、古代中国の神仙術に依った性愛学の教科書であった。福田和彦は平安時代の歌人であり、愛に生き、恋に時間を費やした在原業平に関してこんな事も書いている。
「平安末期の歌人であり、好色男の代名詞ともなっている在原業平が口伝したと言われている、元禄八年版の『好色旅枕』というのがあるが、これが果たして本当に業平のものなのか、その点に関しては定かではない。」
このように様々な性愛学のテキストともいうべきものがやがて江戸期に入ると、次から次ぎへと出てきた。中にはお寺の住職などもいて、その中の一人に、椙本法師という人物が居た。文政の頃彼は、『しめしごと雨後の竹がり』という、良い女性の選び方に関する書物を残している。人間はあらゆる時代に、人種を問わず、言葉を問わず、常に何らかの形で一種の性愛学的なマニュアルを残している。恰も組織宗教のマニアルとなった経典や聖書やコーランと同じく、こういう東西の性愛書も意味を持つような時代になって来ている。
医学者、高橋鉄は、「性体験報告」という副題を持っている『人性記』の初版本の序文の中で、アルフレッド・C・キンゼイ博士から手紙を受け取ったことを書いている。キンゼイ博士は、過去二十五年間に亘る、アメリカ人の性生活に付いて、凡そ一万二千人の人々からのレポートを受け、これまでコロンブスが地理学の上で成し遂げたものと殆ど匹敵するぐらいの、性の暗黒大陸が発見された時、世界中の人々は、驚きと尊敬の目を向けた。このように高橋は書いているのだが、彼自身キンゼイ博士に先立ち、『人性記』の性に関するフィールド・ワークを細々と記録して来た。高橋に依れば、キンゼイ博士のフィールド・ワークによってアメリカ全土の人々が、間違いなく性のタブーから解放されたと見ている。「隣人もそうであったか」と言う安心感と、隣人愛に心を蘇らせた人々が、多く居たのである。
『ねあのひみつをおしえます』(紅閨秘伝抄)を著したのは、福田和彦という人物である。この本の監修者の、日本自然性医学の研究所長である医学博士はこうも書いている。
「かの有名なマスターズとジョンソン博士が、実際に男女のセックスを観察しながら、現代人のセックスを考察し、研究したのが、最初の性愛学者であるという事は、良く知られているが、日本では、既に百七十年前の江戸時代に浮世絵師であった渓斎英泉と言う、いわばマスターズとジョンソン博士よりも、もっと洞察眼の鋭いヒューマニティに溢れた性愛学者がいたということを、現代の日本人は知っているだろうか。江戸時代の浮世絵師たちは、フィクションで男女の絡みを描いた訳ではなく、画家として、冷静且つ創造的な眼力で持って、目前の濃厚な男女の世界を描いたのである。それもマスターズとジョンソン博士達のような、実験室の中などではなく、廓という絢爛豪奢な芳しいセックスの理想郷や、庶民生活の閨房の中である。当時の春画と呼ばれているものは、現代のポルノ写真とは全く懸絶されるほど、エロテックな情緒を奏で挙げているのは、そのリアリティと情感美の豊かさ故では無かっただろうか。」
私に、書くことの素晴らしさや、書く態度を教えてくれたミラーをポルノ作家と呼ぶのも、この事によってはっきり間違いであることを知らされる。彼の作品はむしろ人生哲学の極北にあって、私などはバイブルや、コーランと同じレベルで理解している。
渓斎英泉という先に述べた浮世絵師は、文政期の頃『枕文庫』という本を著している。スエーデンの性科学者達が、一様に驚いたのは、恰もフランス革命の動乱期の頃このようなユーモアと機知にとんだ、何処までも進歩的な性愛書が、日本で生まれていたということである。福田和彦は、『紅閨秘伝抄』の緒言の中でこう書いている。
「文明を持った時、類人猿とは懸絶される性愛生活を持った。即ち、人間は性本能を消失、もしくは完全に退化させてしまった。人類五千年に亘る文明社会の中に於いて、人間は、性本能の消失と退化と共に、これを理性に変え、想像力のものにしたのである。人間女性にあっては、体毛が消失し、クリトリスが異常に発達し、性的人間として成熟した。理由は、大脳組織の発達、加えて潤沢な食料供給に依る性ホルモンの過剰である。取り分けクリトリスの肥大は、女性の性快楽の神秘力を増大させた。人間の性愛生活のみが、類人猿とは異なり、四季を分かたず、愛欲生活を営む事が可能となった。女性の月経も原初に、年一回でしかなかったものが、毎月排卵期があるようになった。それは食物摂取に依るホルモン過剰の成せる業である。それは人間の性の進化現象である。性愛は本能的欲求ではなく、人間理性の好色的な好奇心であり、想像力であり、幻想力である。」
このように考えていく時、確かに理性に置き換えられた類人猿の、極めて機械的であり、同時にあらゆる生物の営みに過ぎない行動が、文明人間の場合は、明確に理性に置き換えられた。だが理性が人間の好奇心や、想像力に向かう橋渡しをした時、性愛は、もう一つの人間の美しい生きる力となったが、残念なことに、他の点に関しては、理性は決して感情や幻想力にまで発展することは無かった。文明批判の心は、こんな所から生まれたものらしい。文明を離れ、原生の生活に戻る時、こうした理性の檻に入れられてしまった人間にも、此処から抜け出す道があっても良いのではないか。
医学者、高橋鉄は、「性体験報告」という副題を持っている『人性記』の初版本の序文の中で、アルフレッド・C・キンゼイ博士から手紙を受け取ったことを書いている。キンゼイ博士は、過去二十五年間に亘る、アメリカ人の性生活に付いて、凡そ一万二千人の人々からのレポートを受け、これまでコロンブスが地理学の上で成し遂げたものと殆ど匹敵するぐらいの、性の暗黒大陸が発見された時、世界中の人々は、驚きと尊敬の目を向けた。このように高橋は書いているのだが、彼自身キンゼイ博士に先立ち、『人性記』の性に関するフィールド・ワークを細々と記録して来た。高橋に依れば、キンゼイ博士のフィールド・ワークによってアメリカ全土の人々が、間違いなく性のタブーから解放されたと見ている。「隣人もそうであったか」と言う安心感と、隣人愛に心を蘇らせた人々が、多く居たのである。
『ねあのひみつをおしえます』(紅閨秘伝抄)を著したのは、福田和彦という人物である。この本の監修者の、日本自然性医学の研究所長である医学博士はこうも書いている。
「かの有名なマスターズとジョンソン博士が、実際に男女のセックスを観察しながら、現代人のセックスを考察し、研究したのが、最初の性愛学者であるという事は、良く知られているが、日本では、既に百七十年前の江戸時代に浮世絵師であった渓斎英泉と言う、いわばマスターズとジョンソン博士よりも、もっと洞察眼の鋭いヒューマニティに溢れた性愛学者がいたということを、現代の日本人は知っているだろうか。江戸時代の浮世絵師たちは、フィクションで男女の絡みを描いた訳ではなく、画家として、冷静且つ創造的な眼力で持って、目前の濃厚な男女の世界を描いたのである。それもマスターズとジョンソン博士達のような、実験室の中などではなく、廓という絢爛豪奢な芳しいセックスの理想郷や、庶民生活の閨房の中である。当時の春画と呼ばれているものは、現代のポルノ写真とは全く懸絶されるほど、エロテックな情緒を奏で挙げているのは、そのリアリティと情感美の豊かさ故では無かっただろうか。」
私に、書くことの素晴らしさや、書く態度を教えてくれたミラーをポルノ作家と呼ぶのも、この事によってはっきり間違いであることを知らされる。彼の作品はむしろ人生哲学の極北にあって、私などはバイブルや、コーランと同じレベルで理解している。
渓斎英泉という先に述べた浮世絵師は、文政期の頃『枕文庫』という本を著している。スエーデンの性科学者達が、一様に驚いたのは、恰もフランス革命の動乱期の頃このようなユーモアと機知にとんだ、何処までも進歩的な性愛書が、日本で生まれていたということである。福田和彦は、『紅閨秘伝抄』の緒言の中でこう書いている。
「文明を持った時、類人猿とは懸絶される性愛生活を持った。即ち、人間は性本能を消失、もしくは完全に退化させてしまった。人類五千年に亘る文明社会の中に於いて、人間は、性本能の消失と退化と共に、これを理性に変え、想像力のものにしたのである。人間女性にあっては、体毛が消失し、クリトリスが異常に発達し、性的人間として成熟した。理由は、大脳組織の発達、加えて潤沢な食料供給に依る性ホルモンの過剰である。取り分けクリトリスの肥大は、女性の性快楽の神秘力を増大させた。人間の性愛生活のみが、類人猿とは異なり、四季を分かたず、愛欲生活を営む事が可能となった。女性の月経も原初に、年一回でしかなかったものが、毎月排卵期があるようになった。それは食物摂取に依るホルモン過剰の成せる業である。それは人間の性の進化現象である。性愛は本能的欲求ではなく、人間理性の好色的な好奇心であり、想像力であり、幻想力である。」
このように考えていく時、確かに理性に置き換えられた類人猿の、極めて機械的であり、同時にあらゆる生物の営みに過ぎない行動が、文明人間の場合は、明確に理性に置き換えられた。だが理性が人間の好奇心や、想像力に向かう橋渡しをした時、性愛は、もう一つの人間の美しい生きる力となったが、残念なことに、他の点に関しては、理性は決して感情や幻想力にまで発展することは無かった。文明批判の心は、こんな所から生まれたものらしい。文明を離れ、原生の生活に戻る時、こうした理性の檻に入れられてしまった人間にも、此処から抜け出す道があっても良いのではないか。
文明社会が、今のような人間を作り出したとするならば、同じ霊長類であってもチンパンジーやゴリラとすっかり分けられる人間性を作ったのも、文明の力そのものである。人間は犬や猫のように生まれながらにして毛色は変わっていないが、性格は微妙に変化している。心は元々生まれながらに個性をもっているが、後天的な変化も又大いに影響していることを忘れる訳にはいかない。アメリカの保育園で行った実験であると言うが、多少知恵の遅れが目だっている子供を普通の子供達の写真に混ぜておいて、その写真の中から知恵遅れの子供を探し出せと言う実験をしたのである。殆どの人たちは、普通の子供の間から、正しく知恵遅れの子供を探し出すことは出来なかったようである。我々にとってそれらしい顔から、それらしい性格を見つけることは殆ど出来ないというのが正しいようだ。
ある時ハーバード大学の人類学者であるアーネスト・フートンは様々な軽犯罪者や白人、黒人の犯罪者を人類学的に、社会学的に、法学的に徹底的に分類して調べた事がある。犯罪精神病の素質を備えた千人近くの人々や、はっきりと精神病と見なされている数千人の人々や、正常者数千人を比べ、その違いの原因を体質の失調症から来ていることを報告している。犯罪と精神病は、むしろ心の問題と言うよりも体質の失調を基本とした問題であると見ている。つまり、心の大きな欠陥や問題もその根底には体質の失調にあることを私達は意識しなければならない。犯罪と精神病の両方を併発している人間は、確かに失調症の度合いがとても強いと言えるかもしれない。
或る女性作家は、自分の長らく付き合っていた音楽家の性格を、一々細かく分析して文章に仕立てている。彼女に依れば、この男は何事につけてもとても控えめであって、呆れるほど相手を思い遣り、丁重な態度を示していた。そんな彼だが、彼の心の中に何が起こっているのかをはっきり想像する事はとても出来ないことであった。彼が時として激怒することもあるが、更にその怒りを強くすると、彼の表情や態度は見た目には益々冷静になるのが常であった。だからこの男が、どれくらい激しく激怒しているのか、心の中を探るには、彼の冷静で丁重な態度が強ければ強いほどよく分る。そのような時実は、彼はどうにも始末に終えなかった。何故かというに、自分の生活態度を他人にも無理やり従わせようとしたのである。彼の実生活がどんなものであったか、彼には殆ど理解出来てはいなかったようである。その生き方の基本に関しては、彼自身どうやっても出来るような代物ではなかった。そんな場合彼は、自分の愛している人達をも何時も苦しめていたのである。しかし華々しい特別な音楽的才能を発揮するのもこんな時であった。彼はとても皮肉屋であり、おかしいほど気取り屋であり、とても凝り性でもあった。しかもどんなことに対してもとても気難しかった。彼は自分の楽しみの為には、周囲の者に噛み付くこともあり、その態度は、周りのものを酷く傷付けた。時には人の事を馬鹿にしたり、それも出来ない時には、軽蔑するような深い沈黙に陥り、悲しげな脹れ面をして、じっと閉じこもってしまうのが常である。どんなことも彼には縁が無く、無関係のように見えた。彼はどんなことも、どんな周りからの意見も又、どんな思想からも遠く離れたところに自分を置いた。
このような記述にぶつかると、私などは、自分の妻に対する態度とよく似た部分をこの中の七、八十パーセントに見つけるのである。そして現代文明人の九十パーセント以上は自分の中にこれらの性格を見出すのではないかとさえ思う。
この男とは、若くして結核を患い、美しい多くのピアノ曲を世に残した、ポーランド生れでフランスで生涯を閉じたショパンである。そして、かの女流作家ジョルジュ・サンドがこのことを書いているのである。
人間は文明という名の心の失調症に冒されているので、常に生活の態度はショパンそのものである。だからある研究者はこうも言っている。
「体質を回復することなしに、環境を改善することは意味が無い。」
金銭や権力そして名誉にしがみ付く現代人の心は、肉対の失調症から来ているのだ。永遠の教師とさえ呼ばれているソクラテスさえ肥満の大男であったようだが、その実、心は既にあの当時文明精神に冒されていてたので、何処までも痩せた魂の存在を自ら苦しんでいたのではないだろうか。その証拠に彼の弟子であるプラトンが書いた様々な対話集の中でソクラテスは、とても皮肉屋であり、何一つ本当のことの分っていない自分を知っている事実を自ら認めていた。彼はやはりもう一人のショパンであった。哲学する事が、死ぬ為のウォーミングアップだと悟った所に、そんなことをはっきりと感じ取る。
長らく東北に住んでいると、この地に育った米文化といおうか、其処から生まれた餅文化の中に、弘法大師の足跡が深く東北の農民の間に残っていることを知る。事実、北海道を除けば、日本全土に大師の錫杖の触れなかった土地は殆ど無いのである。その中でも、四国や小豆島の遍路の道筋には、その思いがはっきりと遺っている。今私が住んでいる東海地方の岐阜にも彼の足跡は遺っている。事実私達の住居のすぐ下の土手にもそこから一キロばかり離れた一角にも弘法大師の足跡が石碑に刻まれて遺されている。空海と一般に呼ばれてきた彼は、別名、「お大師さん」として崇められ、かつてユダヤの民の間にモーセがいて、錫杖で磐を叩けばこんこんと水が湧き出たように、空海が錫杖で地面を打つと、清水が湧き出したと言われている。そんな為か、日本全土のあちこちに、「弘法清水」と呼ばれている所が数多く存在する。土地を耕して生きる民衆にとって、その願望を叶えてくれる神秘的な超能力を持っていたのが、空海だったのであろう。その行動のスケールの大きさは、何処か日本人離れしていて、彼の書いた『三教指帰』の序文の中で、「土州室戸崎に勤念す。谷は響を惜しまず、明星来影す。」と言うのがある。四国遍路の長い道程は、四州に亘り、海辺沿いに、延々と八十八箇所の霊場となって人々を呼び寄せている。それ以上に、日本真言仏教のお寺が、延々と歩いて一週間近くかかる小豆島に残されている。奥の院までの長い道程には、九十五箇所も霊志が存在する。このような土地を訪れる他郷の人々は、白い帷子を身に纏って、「同行二人」を大師と共にするのだという意識に燃え、遍路の道筋に人々も、彼らの前には共に大師が歩いていることを信じ、それなりの心の篭った接待をするのである。菅笠を被り、納札をぶら下げ、念珠を持ち、頭陀袋をかけ、手甲脚絆の出で立ちで、手には金剛杖を持って歩くのである。恐らく空海が握っていた錫杖の音がこの金剛杖に付いた銀の鈴から響いてくるのではないか。彼等お遍路の人々が着ている経帷子は、事実死者の衣であり、彼らは既にこの旅に出た時、生きていながら死んでいる自分をはっきりと意識しているのである。たった百五十キロの霊場、九十五箇所の旅は、そのまま死者の旅でもあった。八百三十五年に死んだ空海はこれらの遍路の旅人の中でもう一度復活しているのである。ボヘミアンが好む彼等独特の野宿の形も、ヒッピーたちの自由そのものの旅姿も、これら四国や瀬戸内の島に伝えられている霊場と共に日本人にははっきりと遺されている。生きるという事は、その裏側である死をはっきりと意識する時、益々明確なものになってくる。その昔、ソクラテスやプラトンやデオゲネスなどは、既に西洋的な又はバルカン的な形で遍路の旅をしていたようだ。人間は常に、文明の中で素朴さを失い、少しずつ利口になって行き、目から鼻に抜ける小知恵と自然を押し返していく力を持ち始めると、大多数の凡人の中から、特別選ばれた存在として、自然と折り合いをつけ、原生の高いレベルに生きる力を持った人々が現れる。一般大衆が、カリスマと呼ぶのが、このタイプの人達である。「お大師さん」と人々が呼ぶとき、其処には確かにこのカリスマ性を備えた人物として空海を扱っているのである。今の社会を作っている我々凡人達には、事実杖は要らない。ましてや金剛杖も必要が無い。きらきら光る魔力にも近いものを発散している錫杖などは見ることも出来ない。真言密教と言う組織宗教であるにしても、大師がこれを宣言する時、それは不思議な光を発散させる。キリストや、釈迦やマホメットが発散したのも将に、この種の強烈なオーラである。確かに私達は、組織宗教から足を洗い、手を洗い、心を離脱させることによって、我々の内なる純粋宗教又は心の中の一ヶ所に生きて働いているその人の「智」を明らかにしなくてはならない。文明の社会のどんな教えによっても、見出す事が出来ず、文化の社会を時代時代の中で作っているどんな知恵によっても、捕ら得る事が出来ない「智」というものを、一人一人の人間は自分の内側の心の一角から見出す事が出来るのである。それは生と死が重なった重いロゴスであり、ロゴスと言うものは言葉以上の何かであり、これを内側に持つことによってその人間は一種のカリスマとなれるのである。オーラの発散できる人間となるのである。同行二人と胸を張ってお大師さんと一緒に歩くのがお遍路に旅なら、「同行一人」という自分と自分の心との旅、即ち純粋宗教の人生の旅は一層楽しいものである。外側ではなく心の中に一人で歩く為の、白い経帷子を纏うことは、また自分のロゴスのような金剛杖を持って立つ人生は、何と誇り高いものであることか。
限りなく信ずべきものをもつ行為を、Sola fideと呼んだのである。この言葉によく心を向けてみると、其処に計り知れない死の闇の広がっている事実に気付く。人間社会はこの死に覆われている事実から理解が始まる。それでいて尚、分らぬものが死そのものである。「死の哲学」という一文をも書いているシェストフはこの事実をよく知っていたに違いない。『パイドン』というプラトンの対話集の一つの中で、こう書かれてある。
「魂が、何度も何度も生まれ変わっているうちに、遂には疲れ果て、結局一つの死に当たって、全く亡び去る事が無いまでの譲歩まで行くことはないので、死は、つまり魂の破滅を、体からの分離だと誰にでも理解できているのである。」
更にプラトンが手掛けている、『ソクラテスの弁明』の中でこんな事も書いている。
「最も人間の中で賢いのは、ソクラテスのような、知恵に長けて、自分の無価値なことをはっきりと悟った人物のことだ。」
此処で自らを指して無価値だと言ったこと、知恵の無い事実を悟ったことによって、この永遠の教師と言われていたソクラテスは、文明の中にそれを見詰めることによって、実は他でもない、自ら何も知らないという事実にぶつかったのである。再び、例のプラトンの著作、『パイドン』の一頁に心を留めていたい。ソクラテスは、死刑になる将にその日に、彼の周りに集まった弟子達に向かってこう言ったのである。プラトンは、そのことをよく覚えていたので、実に鮮やかにこう証言しているのである。
「生涯、本当に愛智に明け暮れて生きてきた男は、何も死ぬ時になって、物怖じしたりすることなく、死後はあの世で最大の素晴らしいものを与えられる希望に満たされている。その人間が、そう考えるのは、当然のことだ。・・・・・実は正しい意味で、愛智と言う問題に真剣に取り組んできた人々は、恐らく、他の人々には理解出来ないかもしれないが、彼ら自身は、他でもない、死ぬということ、即ち死んでいることに努力をしているんだよ。・・・・・本当に愛智者達というものはとうに死んでいるようなものだ。そして愛智者が死に値することを自らはっきり分っているのだ。・・・・・本当の愛智者達が、どうして直ぐに死んでいるようなものなのか、どうして死に値するのか、どんな死に値するのか、そんなことは彼らには全く分らない。」
実に明確に、しかも単純に、そして最近のドイツの思想家ヤコブ・ベーメのように、まるで文明社会の教養の基本さえない人物のように、それでいて実に明快な、永遠の教師に相応しい言葉を述べているのである。シェストフは、『ソラ・フィデの哲学』の中の八章に当たる「死の練習」の中でやはり、「パイドン」の一節をこう読み取っている。
「真に愛智学に没頭している人間は、只管に自分が、“死に向かうウォーミングアップ“をやっていることを、周りの人々に見つからないようにと隠している。」
このように本当に言葉ではない又言葉以上のロゴス又はイデヤを持っている人間を、シェストフはこの様にも表現している。恐らくこれは今引用したプラトンの言葉の現代ヴァージョンと言えようか。
「もし諸君が、どんなに好きな現代哲学の教科書に目を通し、其処に書かれている様々な学問の定義を捜しても、其処には諸君が求めているような答えを見つけることは出来ないであろう。諸君は現代史の教科書の中で、プラトンの言葉に目を通すならば、その点多くの事を知ることになろう。しかしそれでも尚、プラトンが、先に引用した定義を哲学に与えたことは、諸君の心からは隠されたままであろう。」
しかも特別このような哲学的問題を専門に行っている学者も、今日尚、このプラトンの課題がどの辺にあるのか理解してはいない。『パイドン』の中ではこの重大なソクラテスの告白が、二度も繰り返し述べられていると、シェストフは言うが、それは二度どころではないはずである。魂が愛智するということにおいて「死の練習」、死に近付く為のウォーミングアップ、更には文明社会からの離脱を考える、「永遠の秘密の領域」は、取りも直さず文明の中で生きながら、その実、原生のレベルで生きることを意味しているのである。今目の前に広がり、実際手に触れられるこの人生を、そのまま死と生、両方を重ねてみる時、其処に人々は容易に人生の形を信じる事が出来る。現代人はそれを疑り深い目で見詰めるだろうが、窮極の存在イデアは其処にあるのである。シェストフはそんな意味に於いてもやはり現代の実存哲学者の嚆矢だったのである。時間を見て更にシェストフの言葉に接したいものだ。